神様のいる町


祭囃子が聞こえる 4

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 一階の控え室になっている部屋に着くと、ほぼ同時に神楽を舞い終えた子供たちが走りこんできた。その後から遠慮がちに彼らの母親達が顔を覗かせるのに、「どうぞ」と声をかけて部屋に招きいれる。
 衣装を脱いでしまう前に、と即席の写真撮影会が開かれる横で子供達が放り出した鈴を丁寧に布で拭いて、箱に収めていく。竜神様は窓枠に腰掛けて、お祭りのざわめきに耳を傾けていた。
 お囃子に耳を傾けながら、入れ替わり立ち代り戻ってくる子供達が脱いだ衣装をたたんだり、道具類をしまったりしていると、いつの間にか時間は過ぎて、澄子さんが部屋へやってきた。窓の外に目をやると外は、もう真っ暗でつるされた電灯が煌々と灯って、お祭りらしさを演出している。西の空には人工の明かりとはまったく違うきいろい光を放つ九日月が浮かんでいた。
「薫ちゃんどうかした?」
「いえ、ごめんなさい。少しぼうっとしていました。」
 澄子さんの頭にのせるための冠を取り上げると、金具同士が触れ合ってしゃらりと涼しい音を立てた。
「冠は向こうでつけられますか?」
「そうね、鴨居でぶつけてしまってはいけないし。」
 そう言って、澄子さんは舞で使う扇子と鈴を取り上げた。
「すいません。遅くなりました」
 ぱたぱたと軽い足音を立てて、しずちゃんと正宗が連れ立って走ってきた。正宗というのは、弥生の神様の使いをしている少年だ。しずちゃんが頭に飾っている金木犀が部屋にふわりと香った。


「お、皐月さん。客席に戻られるんですか?」
 冠をつけて、後は舞台に上がるだけになった澄子さんに手を振って、舞台袖から去ろうとするとカメラマンの佐藤さんに呼び止められた。
「はい」
「じゃあちょっとだけ待ってもらえませんか。僕も客席に戻るんでお送りしますよ。人が多くても、女の子が暗がりを一人で歩くのは危ないですから」
 一人ではないのだけれど、とこっそり竜神様を見上げて答えあぐねている間に、佐藤さんは手早く荷物をまとめて側へやってきた。
「さ、行きましょう」
 断ることもできなくて、歩き出した佐藤さんに一歩遅れてついて行く。
「皐月さんも巫女舞、踊られるんですか?」
「はい。今日は舞いませんが、皐月野のお祭りでは……」
 あまり上手ではないですけど。心の中でそう付け足して、誰にもわからないような小さなため息をついた。何か一つでも自信があるものがあればいいのに。そうしたらきっと、誰のことも妬まないでいられる。
「皐月さんの所のお祭りは?」
「夏にあります。もしよければ来年にでもいらしてください。」
 田中さんとまひるさんを見つけた佐藤さんはお二人に手を振った。まひるさんと目が合ったので軽く頭をさげる。
 田中さんの隣には弥生の神様が座っていた。神様が見えない佐藤さんはそこが空いているように見えたのだろう。まっすぐそこを目指して歩いていく。それに気がついたらしい神様は立ち上がって、お酌をさせていた女の人達を引き連れて私たちが来た方向にやってきた。私はかすかに会釈をして、すれ違った。
「どうしたの。特等席に居たんだから、そこで観れば良かったのに」
「神楽殿は子供の動きを撮るにはいい場所なんだけどね。舞ってのは元々、観客席からもっとも美しく見えるように計算されてるの」
 薫さんはどうして? まひるさんが尋ねるように私を見上げた。
「澄子さんの舞が終われば、一斉に片づけが始まります。浴衣姿では満足にお手伝いもできませんし」
 お邪魔虫になるだけなので、と笑うとまひるさんは眉をひそめた。私、何か変なことを言ったかしら。
 田中さんが席を立って譲ってくれようとするのを慌てて断った。
「浴衣に草の染みがついたらクリーニングが大変でしょう」
「いえ、そんな……」
 私は竜神様と別の場所で見ますから。そう言おうとしたのに口を挟む隙はなく、いつのまにかまひるさんの隣に座らされてしまっていた。途方に暮れて竜神様を見上げると竜神様は座っていなさいと言うように手を振って苦笑した。席を譲ってくれた田中さんは佐藤さんのお隣に腰を下ろそうとしてふと動きを止め、竜神様を見上げた。他の人には見えない竜神様に席を譲るべきか、譲らなくてもよいのか迷ったようだ。
「お気になされるな。……まひる殿、申し訳ないが、薫と席を替わっていただけるか?」
 理由がわからずに私はまひるさんと顔を見合わせた。
 まひるさんに促されて、私はまひるさんと場所を入れ替わる。竜神様はまひるさんと田中さんの前を通りすぎて私の斜め前に腰を下ろした。
「お気遣い、感謝する」
 竜神様が手を伸ばして膝の上にそろえた私の手をそっと包んだ。
 私はぼんやりとその大きな、美しい手を見つめていた。
「あら皐月の巫女さんこんばんは。今夜は蒸すわねえ」
 ふいに風が頬に当たって私はそちらを振り向いた。
「こんばんは。本当に、今夜は蒸しますね。」
 隣に座ったおばさんがうちわをパタパタと扇いでくれている。先ほどの風はこれなのだと知って私はぺこりと頭をさげた。
「ありがとうございます」
「ほんと、皐月さん、おおきくなったわねぇ。ついこの間までこんなに小さかったのに」
 そう言っておばさんは膝のあたりで手を振った。
「そうですか? 」
 おばさんの声はなんだか遠くから聞こえているような気がする。言われることに、当たりさわりのないことしか答えられなくて、申し訳なくなってくる。そのうちおばさんは連れの方達のお喋りが気になりはじめたらしく、そちらに戻ってしまった。内心でほっとして、ほっとした自分が少し嫌いになりそう。
 前を向くと視界に突然アニメ調のハムスターが飛び込んできた。
「わたあめ、食べません?」
 ぎょっとして横を向くとまひるさんが笑ってそう言った。
「いただきます」
 取りやすい位置に差し出された袋に手を入れて、真っ白なふわふわを少しちぎって口に運ぶ。
 口のなかでふわりと解けたその甘さが、必死で保っていた心まで解かしてしまいそうで私は唇を噛みしめた。
 ふと目に入ったわたあめのピンク色の袋には、さっきのハムスターが描かれている。
「……公太郎くんとちゃおちゃん、かわいいですよね。遊びに来る子供たちに、一番人気があります」
 まひるさんは何と答えればいいのかわからないといった様子でハムスターを見つめていた。


 出店の電気が消されたのを感じて、そろそろあかりが消えるなとぼんやり思った。誰もいなくなった舞台を見つめていると参道脇の灯籠と、神楽殿の松明を残して神社のすべての明かりが消えた。風に揺らぐ炎の明かりはゆらゆらと揺れて、たちまち神社を不思議な空間に変えてしまった。
 毎年のことなので、誰も騒ぐことはない。祭りの目玉である巫女舞を待ってあたりはしんと静まり返る。
 ドォォォン、と太鼓が一つ叩かれて、異様なほどの静寂を破った。太鼓の音は鎮守の杜に届いて余韻を残して夜の闇に消えていく。

 巫女舞のはじまりだ。

 澄子さんが現れて、神楽舞台の中央に正座した。化粧を施した白い顔が、松明の明かりで橙色にあやしく揺らめく。
 続いて二つの白い光が宙を駆けて、澄子さんの傍らに着地した。それはしずちゃんと正宗に姿を変えて、二人は澄子さんにならって正座した。きっと二人の姿は普通の人には見えず、燃える炎だけが見えるのだろう。
「狐火……」
 隣で佐藤さんが呆然とつぶやくのが聞こえた。
 ドォォォン、ドォン 心臓に響く太鼓のリズムは徐々に早くなって、鼓動とぴたりと重なった。鉦の音がそれに重なり、続けて笛の音も加わる。
 澄子さんがすっと頭を下げて立ち上がりとうとう舞がはじまった。
 里神楽の巫女舞には珍しい、激しい動きを一瞬の遅れもためらいもなく澄子さんは正確に舞う。袖が翻り、千早の裾が翻り、鈴に結われた五色の布がきれいな螺旋を描く。
 木、火、土、金、水をあらわした五色の布は、その象徴通りに舞台の上に宇宙を描き出す。 
 澄子さんの踏み鳴らす床の音に合わせてしずちゃんと正宗も舞台狭しと跳ね回っている。三人は位置を次々に入れ替わる。
 激しい舞にもかかわらず、澄子さんは指先まで気を配って美しい。私は知らずに唇を噛んで手を握り締めていた。時折シャラシャラと聞こえる涼しげな音は澄子さんの冠の飾りが触れ合う音だ。澄子さんが再びくるりとまわると、弥生の神様の眷属達が次々に舞に加わった。
 いつもであれば、気分を高揚させるお囃子が今日は胸を締め付ける。
 澄子さんはまたシャンと鈴を鳴らして、床を足で打った。
 天照大神が天の岩戸にお隠れになられたときに岩戸の前で舞われたという天鈿女命はこんなだったのだろうか。
「……澄子さんは舞もお上手。何でもできて、澄子さんを見ていると竜神様のお隣に似合うのは澄子さんのような人なのではないかと思ってしまいます」
「薫?」
 名前を呼ばれて、はっと口を押さえた。言葉にするつもりのなかったことが口をついて出てしまった。竜神様の視線を避けるようにうつむいて、手のひらをぎゅっと握り締める。
 竜神様は立ち上がって、しばらく黙って私を見下ろしていた。やがて服の袖で私を包むと、抱えるようにして立ち上がらせた。そのまま促されるままに歩いて、鎮守の杜の入り口にたどり着いた。
「ごめんなさい。あんなことを……言うつもりは」
 竜神様のかすかなため息にびくりと肩をすくませる。喉の奥に熱いものがこみ上げてきて、私は必死でそれを飲み込もうとした。
「ずっとそれで悩んでいたのか?」
「ごめんなさい。私のこと、嫌いにならないでください。」
 見つめている下駄の鼻緒がゆらりと歪んだ。ぽつりと土に黒いしみが一粒できると、泣いてはいけないと思うのに、涙がぼろぼろとあふれて止まらなくなった。
「すまない。私が薫を不安にさせていたのだな」
 そんなことはありません、と首を振る。
「薫のそばにいると落ち着く。私はその穏やかな時間をとても気に入っている。……澄子殿がよければ薫でなくて澄子殿を選んでいるよ。薫は無理をして澄子殿になることはない。」
 竜神様の手がそっと頬に伸びてきて、涙を拭った。そうして身をかがめ、涙を拭ったほおにそっとくちづけた。
「薫、愛しているよ。」
 泣きやまなくては、と思ったのに涙はいっそう溢れて止まらなかった。

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