神様のいる町


祭囃子が聞こえる 3

目次


 まひるさんの携帯電話のお陰で、なんとか『子狐屋』に到着した。まひるさんがメモに書かれたお土産を買う間、私と弥生の神様は店の外で待っていた。
「お待たせしましたっ」
 少し大きめの紙袋を手に提げて、まひるさんが慌てたように店から飛び出した。
「じゃあ、行きましょう」
 『子狐屋』に到着した時点で、すでに一時半の集合時間に間に合わないことは判っていたのでお店を出た瞬間から、まひるさんは走り出した。私も必死で走ったのだけれど、まひるさんや弥生の神様との間はどんどん広がるばかり。
 からからと下駄を引きずる音が遠ざかるのを聞きつけたのか、まず神様が振り返り、それからまひるさんが振り返って止まってくれた。
「薫さん、大丈夫ですか?」
「は、はい」
 急いで立ち止まって待っているお二人に追いついて、待ってくださるのに甘えてブロックに手をついて、息を整えようとした。心臓は鞠のように弾んで、目の裏がちかちかと瞬いた。
 先に、行ってもらった方がいいのかもしれない。
「抱えて運んでやれぬこともないが、こう人が多い中ではさすがにな……」
 弥生の神様が仰るのに、私はとんでもないと首を振った。私のためなんかに、神様に姿を現してもらうのはあまりに申し訳ない。
「大丈夫です」
 まだ走れます。息が切れているせいで、すべてを言うこととはできなかったけれど、いいたいことは伝わったらしい。まひるさんはまた走り出した。
 こんどはずいぶんとゆっくりで、私に合わせていくれているのだと思うと申し訳なくて泣きたくなった。
「無理はしなくても大丈夫ですから。出来るだけ、急ぎましょう」
 まひるさんは何度も何度も振り返ってははげましてくれ、そのおかげでなんとか集合場所にたどり着いた。


「お待たせしました!!」
 たん、たん、としずちゃんがイライラした様子で足を踏み鳴らしている。その隣の田中さんも少し、待ちくたびれた様子でしずちゃんのとなりに立ってる。
 しずちゃんはふいに踏み鳴らしてた足を止めた。
「時間を守っていただかないと、困ります。こちらにも仕事があるんですから」
「ごめんなさい、道を間違えちゃって」
 まひるさんが代わりに謝ってくれているのに申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。
「皐月の巫女、大丈夫か」
 弥生の神様が心配そうに尋ねてくださったけれど、息切れがひどくて答えることが出来なかった。申し訳ないのと、走りすぎて苦しいのとで、私は地面にへたり込んで手をついた。
「す、すみません、私のせいなのです……、まひるさんは、悪く……」
「気にしないで下さい。元々案内をお願いした側なのに、そんな」
「でも」
「とにかく急ぎましょう。朝兄、薫さん抱えて走れる?」
 そんなことをしていただくわけにはいきません! 私はぶんぶんと首を振ったけれど地面に座り込んだ私のことは誰も見ていないようだった。視線が近いしずちゃんとは一度だけ目があったけれど、しずちゃんは相当怒っている様で、つんと目をそらせた。
 頭上では、私をぬかして話が続いている。
「い、いや、薫さん、浴衣でしょ? おんぶはまずいよね。それに荷物みたいに担ぐのもあんまり気が進まないし」
「横抱きにすればいいじゃない」
 そんな。男の人に抱えて走っていただくわけには……。考えただけで、頬が熱くなる。
「……なんか……そんなことすると、竜神様に殺されそうな予感がする……んですけど……なんとなく……」
 田中さんが戸惑ったように言ったとたん、沈黙が落ちた。
 竜神様はそんなことで怒ったりなさいません。抗議しようかと口を開いたが、喉からは熱い息が絶え間なく流れ出て声を出す余裕なんて、ありはしなかった。そんなことよりも、知らない男の人に抱えて走ってもらうのは、困ります。
 弥生の神様は腕を組んで、難しい顔で仰った。
「まあ、そうかもしれんな」
 なんてことを。竜神様がそんなことをなさる方ではないとご存知のはずなのに。……それとも、私が男の人に抱えて走ってもらうことに抵抗を感じているのを知って、機転を利かせてくださったのだろうか。
 どうやら、それは正解だったらしい。弥生の神様は、ぽんと手を叩いて仰った。
「『狐の道』を使おう。あれならばかなり近道になる」
 ずっと私と同じように口を挟めずにいたしずちゃんが顔を上げた。
「なりません。人間を狐の道に入れるなど!」
 『狐の道』というのは、竜神様の背に乗せていただいたときに教えていただいた『龍の道』と同じようなものかしら。空間と空間を捻じ曲げて、遠いところを近くするのだと前に教えていただいたことがある。そのときは、どこだったか、ずいぶん遠くまで連れて行ってもらった。
 だいぶ、息が落ち着いたので私は立ち上がった。
「お主、『入り口』を開けるか?」
「……できます」
「ならば修行だと思って、弥生神社まで案内してやれ。わしは口を出さんからな」
「あの、『狐の道』って?」
 『狐の道』について疑問に思ったらしいまひるさんと田中さんに、不機嫌そうに口を尖らせたしずちゃんが弥生の神様に促されて嫌々ながらに説明する。
「うむ、理論はあっとるな」
 弥生の神様はふむふむと頷いてにやりと口角を上げた。
「たろうくんが私を化かしたのも、この術ですか?」
 まひるさんが尋ねるのにも、神様は同じように頷いた。
「そうか、娘は一回狸にも道のなかに引きずり込まれたのだったな。そうだ。基本はこれと同じだ」
「瞬間移動かー。すごいね、アインシュタインも青くなるような技術を、狐や狸はずーっと昔から持ってるんだね。」
 感心した田中さんに、しずちゃんはべっと舌を出したのを横目で見ながら、アインシュタインさんは科学者さんの名前だったのですね、と私は別のところに感心した。
「人間や狸なんかのインチキ技術と、私たちがずーっと伝えてきた術を、一緒にしないで下さい!!」
 ふん、としずちゃんはそっぽを向いた。田中さんはまひるさんと顔を見合わせて肩をすくめて苦笑した。
 私は神様のお顔が険しくなっていくのを見つめていた。神様がぴたりと立ち止まったので私もつられて立ち止まる。
「しず」
 名前を呼ばれて、しずちゃんがくるりと振り返った。不機嫌だった顔がさぁ……と青ざめた。その顔を見て、まひるさんと田中さんも振り返り、険しい神様の顔を見てぎょっとしたように足を止めた。
「主、様?」
「先ほどから聞いていれば、あまりにも目に余るぞ。それが客人を相手にする態度か?」
「ですが」
「ヒトであれ、狸であれ、やたらと他の種をけなし、狐ばかりが特別だと言い張らんばかりの態度も問題だ。社を建てて、狐を祭ったのはそもそも誰だ? 『インチキ技術』と言うが、その方法を見つけ出すまでに、人間や狸にどれほどの苦労があったか、お前は分かっておるか? 狐は、狐だけで生きているのではない。他の種を喰い、他の種から助けられて存在しているのだ。その謙虚さを忘れて驕りたかぶるのは、神の眷属候補にあるまじき態度だ。川先に戻って正式に眷属に任じられ、『雫』の名前を己のものにしたいのであれば、考えを改めよ。そのような傲慢な者に力を持たれては、それこそ一族の恥というもの」
 神様の瞳はただただ冷たく厳しい。こういう目を見るたびにやはりヒトとカミは違うものなのだと実感する。
 しずちゃんはしゅんとうなだれた。今まで、本気で怒られたことはなかったのかもしれない。どうしていいかわからなくて、戸惑ったようなまひるさんと田中さんと目が合ったので、私は心配ありませんよ、と頷いた。
「客人よ、申し訳ない。一族の者の度重なる非礼、お許しいただければありがたい」
 弥生の神様に頭を下げられてまひるさんと田中さんは本気で慌てて両手を振って、それから首まで振った。
「そんな、別に気にしてませんから!」
「可愛いもんでしたよ、まひるちゃんのちっちゃいときみたいで」
「って朝兄それどういう意味よ!?」
 怒ったまひるさんがつかみかかると田中さんはきまりが悪そうに視線をそらした。
「……時間もないことだし、とりあえずの先導はわしが引き受けよう。……しず、今一度、己が目指しているものが何なのか考えた上で、今宵の舞には望むように。よいな」
 すっと、神様が先頭に進み出て、舞のような美しい所作で宙に何かを書きとめた。そうしてそのまま歩みだす。その背を追って、私たちはまた歩き始めた。
 田中さんがす、と背をかがめてまひるさんに小声でささやいた。
「なんか、さ、ちゃんとカミ様って感じだね。すごいね」
「……そう、ね」
 聞くつもりはなかったけれど、聞こえてしまった言葉にそっと目を細めた。ふざけている神様だけでなく、まじめな神様も見ていただけたと知れば澄子さんも喜ぶのではないかしら。
 遅れがちなしずちゃんを時折振り返りながら、歩いていくと二時の少し前に神社の見える場所にたどり着いた。



 はしたないけれど、走って部屋に駆け込んだ。ぎりぎり2時には間に合ってはいたけれど澄子さんはすでに支度をはじめていた。
 お化粧と着替えがしやすいように部屋にはクーラーがかかっていて火照った体にひやりと涼しい。
「遅くなって、ごめん、な、さい。」
 あんなに必死で走ったのは久しぶりでひどく息が切れてうまく話すことができない。
「そんなに急いで来なくたってよかったのに。しばらく手はいらないから休憩してなさいよ。浴衣、暑いでしょう。クーラーきつくしてかまわないわよ」
 壁に肩を預けて座り込んだ私を鏡越しに見ている澄子さんに首を振った。今の温度でも十分に涼しい。
 床には、着る順に朱と白の衣装が並べられている。その隣には金や銀に輝く装飾品といくつかの石。皐月野は今はお母様が巫女舞いをされているのだけれど、いつかは私が舞うことになる。お母様を亡くされて、澄子さんが舞うようになったのは今の私と同じ歳だ。
 もしも、本当にもしもの話だけれど、急にお父様とお母様が亡くなってしまわれたら私は澄子さんみたいにきちんとできるだろうか。
 私はすぐに心の中で首を振った。きっと無理だ。私はどうしていいかわからなくなっておろおろするばかりだろう。……先刻の道案内のように。
 息もだいぶ落ち着いたところで澄子さんも自分でできるところは終えてしまったようだった。
「ところで薫ちゃん、あなたお昼御飯を食べてないでしょ?」
 思わず買っておいたお弁当の存在を見るととたんに空腹だったことを思い出した。
「先に食べなさいよ。かぶり物はないし、私は先にお化粧をしてしまうから。」
「お言葉に甘えてもよろしいですか?」
 にっこりと笑って澄子さんは頷いた。
 パキン、と割り箸を裂いてお弁当のふたを開く。重陽の節句にちなんだ「菊膳」は華やかでかわいらしい。私はふと思いついて立ち上がった。
「澄子さん、私、お茶を入れますけどいりますか?」
「衣装着ちゃうとねー、トイレに行きにくいし遠慮しとくわ」
「ごめんなさい。気がつかなくて」
 では私もお茶飲まない方がいいかしら。お茶を飲めない人の前でお茶を飲むのはきっと無神経。
「遠慮なんてしないで薫ちゃんは飲んだらいいわ。薫ちゃんはお食事だもの。」
 まるで私の心を読んだように澄子さんは言った。
 お言葉に甘えて私はお茶を入れることにする。菊の手鞠寿司にお茶はよく合った。
 鏡の向こうの澄子さんは少し白すぎるほどの化粧下地を肌に丁寧に重ねている。弥生には、節句の舞いを舞うときに特殊な模様を顔に描く風習がある。それは弥生独自の風習で皐月野の私にお手伝いはできない。それを終えると、次に小さな筆を持って目の縁に朱を差していく。その慎重さは食事の音を出すのも憚かってしまうほどで、私は手鞠寿司を箸で小さくわけてゆっくりと静かに食べた。
 私が手鞠寿司を食べ終わるころにちょうど、澄子さんも化粧を終えた。その化粧は、狐をかたどっているのだと以前に聞いたことがある。歌舞伎の役者とは違ってきつく見えないこの化粧は、澄子さんをとても美しく見せた。
 私は急いで手鞠寿司の入れ物をごみ箱に押し込んで、澄子さんの着付けを手伝った。

「失礼しまーす」
 三時を少し過ぎたころ、浴衣を持ったまひるさんがそっと顔を覗かせた。浴衣姿でお祭りの取材をするとかで、部屋の隅を貸すと澄子さんが言っていたのを思い出す。
 後ろ手で襖を閉めると、好奇心満々のきらきらした瞳でまひるさんは部屋をぐるりと見渡した。特に澄子さんの周りに広げられている衣装と、装身具に目を引かれたようでしばらくじっと見つめた。それからためらったように私を見て、まひるさんは小声で尋ねた。
「……そこで着替えられているのって澄子さんですよね?」
 まひるさんの困ったような声に私と澄子さんは鏡越しに目を見合わせてくすくすと笑った。
「そうですよ。このお化粧ではわかりませんよね」
「それって厄除けか何かなんですか?」
「このメイク、『狐』をあらわしているんですよ。あ、今ぜんぜん狐には見えないって思ったでしょう? そんな顔してます。」
 まったく、昔の人のセンスはわかんないわ、と澄子さんはぼやいて仮止めに使った紐を一本抜き取った。まひるさんは何度か瞬きを繰り返して「いいえ、ちゃんと狐にみえますよ」と答えた。それから「部屋の隅、借りますね」と言って浴衣を落とすように床に置いた。
 本当にこれが狐に見えるのかしら。私は今まで、これが狐に見えるとすぐに言った人に会ったことがなかったのでびっくりしてしまった。でも、まひるさんには神様の姿が見えるのだし、こういうものも見えるのかも知れない。

「一人で着るのってなかなか難しい」
 しばらくして、不意に耳に小さな声が聞こえてきた。ちらりと見るとまひるさんは藍地に桔梗の浴衣に苦戦しているようだった。
「あの、お手伝いしましょうか?」
 丁度澄子さんの手伝いがいらなくなった所だったからご迷惑かもしれないと思ったけれど声をかけてみる。
「……すみません、お願いできますか?」
 まひるさんはしばらく何かを考えるように黙り込んで、それから丈を合わせかけた不自由な姿勢のままぎこちなく振り返った。
 私や澄子さんは洋服を着るよりも先に和服の着方を教わった。だから浴衣を人に着せることぐらいは簡単だ。今日は失敗ばかりして、迷惑をたくさんかけたけれどこれぐらいは役に立てる。
 私は浴衣の上前と下前を取った。まず上前幅を決めて上前幅がずれないように下前を合わせ、上前を重ねた。そうして、まひるさんに押さえていてもらって腰紐を結ぶ。
「失礼しますね」
 身八つ口から手を入れて後ろ身頃と前身ごろを整える。その次に背中心が曲がっていないかを確かめて襟元を調えた。
「布が重なって気持ちが悪いとこなどありませんか?」
 まひるさんははっと我に返ったように私を見て大丈夫だと答えた。
 胸紐を締めておはしょりを整える。だて締めも締めて、後ろのおはしょりを引っ張って背も整える。
「帯は、どうしましょう? 文庫結びでよろしいでしょうか」
「文庫結び?」
 まひるさんは何のこと? とでも言うように首をかしげた。困ったわ、どう説明したらいいのかしら。
「ええと、文庫結びというのは一番一般的な結び方です。リボン結びのような」
 あれ、何かちがう。リボン結びは別にある。あっ、
「そうだ、蝶ネクタイのような感じです。蝶ネクタイの蝶が垂れたような結び方です。」
 これで、なんとなくでも感じは伝わったかしら。私は思いついて自分の帯に手を伸ばし、「一文字」という結び方だった帯を「文庫結び」に直して後ろを向き、帯が見えるように髪をよけた。一文字は文庫結びの変形なのだ。後ろに手を回して直したから、ちょっと変になったかもしれない。
「わざわざありがとうございます。じゃあそれでお願いします。」
「はい」
 やっぱり私が頼りないって思ったかしら。私、馬鹿なところばかり見せて情けない。
 まひるさんにはお下げと袖を前でもっていてもらって、帯に取りかかった。
「苦しくありません? まひるさん、昼食をお食べになられたばかりでしょう?」
 帯を締めながら尋ねるとまひるさんは苦笑した。
「あんまりたくさん食べていないから、もう少しぐらいなら大丈夫ですよ。」
 言われるままにもう少し締めて文庫を作る。ちょっと遊び心をはたらかせて文庫を崩し「あげは蝶結び」にした。そしてぽんと帯をたたいた。
「できました。」
 まひるさんは袖を放して自分の浴衣姿を見下ろしている。浴衣を着るとぐっと雰囲気が変わった。髪の毛が三つ編みのお下げのままではもったいないような気がする。
「そうだ、せっかく浴衣なのですから。髪をアップにしませんか? もったいないですよ。」
 私の言葉にまひるさんはぎょっとしたように私を見た。もしかしなくても、これは……信用されていない目だ。
「すいません。ちょっと言ってみただけです。私なんて、信用できませんよね。三つ編みでも十分かわいいです。」
「あ、あの、おねがいします。」
 慌てたようにまひるさんはそういった。なんだか気を使ってもらってしまったみたいでいたたまれなくなる。
「本当にごめんなさい。三つ編み、似合いますよ」
 そういったのに、まひるさんはさっさと三つ編みをとめていたゴムを抜いて、髪の毛をほぐしてしまった。内心で悲鳴を上げながら、私は櫛を手に取った。
「澄子さーん、いろいろ借ります」
 こうなったら、きちんと仕上げなくてはまひるさんに申し訳ない。三つ編みでほんのりとついたウェーブに櫛を通しながら、このウェーブはこのまま使ったらいいなと考える。
「いじりにくいでしょう、くせっ毛だし、量が多いから。私でもいつもお下げにするのがやっとで」
「そんなことありませんよ。髪の量が多いとアップにしたとき見栄えがいいですから」
 とりあえず、頭の上半分だけ髪をまとめて、ピンで頭にとめていく。ところが、まひるさんの言うとおり、まひるさんのくせっ毛は思った方向にうまく止まってくれなくて、何度も何度も挿しなおさなくてはならなかった。
 ちらりと、まひるさんの視線が壁の時計に動いた。つられて目をやると、ちょうど4時で、まひるさんが取材するはずの子供舞の始まる時間だ。
「ほんとうにごめんなさい。」
 あわてて、頭の下半分もまとめて上げる。下半分も上と同じように止めていこうとしたとき、すっかり仕度を終えた澄子さんが横からピンを取り上げた。そして私が戸惑ったのはまるで嘘のようにに、適当にとめているように見えるほど鮮やかな手つきできれいにまとめてしまった。
 そしてそのまま、澄子さんはひどく急いだ様子で部屋を出て行った。
「ありがとうございます。申し訳ないけど、先に行きますね。」
 まひるさんも慌てて部屋を出て行って、私は一人で部屋に取り残された。

 私はぺたりと床に座り込んで、それから小さくため息をついた。
「私って、人に迷惑かけてばっかりだぁ」
 這うように移動して、散らかしたままの道具を必要以上に時間をかけてゆっくりと片していく。
 閉め切った窓の外からは、子供舞に合わせて流れるお囃子とお祭り特有の浮ついたざわめきが小さく聞こえる。お祭りの進行と共にいっそう賑やかになっていくそのざわめきと反比例するように部屋はどんどん静かに感じられてなんだか孤独な気分になってきた。エアコンを切って、窓を開け放す。
 窓枠に体を預けて、下のお祭りを見下ろしもう一度ため息をついた。
「薫、子供舞は見に行かぬのか?」
 襖の開いた気配はないのに、すぐ後ろから声が聞こえた。振り返ると竜神様が立っている。私が動く気配を見せずにいると、竜神様は隣に腰を下ろした。
「まあ、ここからでも見えるがな」
 窓からは花笠をかぶった子供たちが踊っている姿が親指ほどの大きさで見えるのだけれど、神楽殿には屋根があるためここからでは奥のほうが半分ほど見えない。
「薫、その花はどうした?」
「花?」
 竜神様の視線をたどって、狐の子供にもらった花のことを思い出した。ばたばたしていて、半分忘れかけていた。
「昼前に廊下ですれ違った狐の子供に頂きました。お詫びなのだそうです」
「薫の黒い髪によく映える。似合っているよ」
 そっと花に手をやって、あんなに走ったのに変わらず髪に挿されたままの花に少し驚いた。
 竜神様の大きな手がゆっくりと髪を梳いた。
「お使いはどうだった?」
「……迷ってしまいました。お客様にもご迷惑をかけて、澄子さんの着付けに間に合わなくなりそうで、弥生の神様に狐の道を通していただきました。」
「だから元気がないのか?」
 思いもしないことをいわれて、私は竜神様を見上げた。窓からはさらさらと風が流れ込んで頬や手に触れていく。竜神様のそばにいると、いつも柔らかな風が吹く。
 しばらくの沈黙を破って、私は言った。
「いいえ。どうしてそんな風に思うのですか」
 竜神様の視線が重くて私はうつむいた。髪を梳いていた手が肩に伸びてきて、そっと抱き寄せられた。
「……薫のことならわかるよ。」
 大きな手が背中をとんとんと優しく叩く。
「何があった? 先日からずっと元気がない」
 ……言えるわけがない。澄子さんをずっと妬んでいるなんて。うらやましいと思っているなんて。竜神様は、こんな、なにもできない私のどこがお好きなのだろう。心の中が新月の夜のように真っ暗になっていく。
 竜神様は何も言わずに私の頭を引き寄せて、子供にするように背中を優しく叩き続けた。
 日の暮れ始めた窓の外からはお囃子が聞こえて、季節外れの蝉が山のどこかで鳴いて。人のざわめきや出店の発電機のうなるような低い機械音は途切れることなく窓から流れ込んでくる。
 けれど、私は何も言えなかった。何も言えずにずっと窓の外を見つめ続けていた。 
「薫、子供舞が終わる。片づけを手伝いに行くのだろう?」
 私はこくりと頷いて、竜神様の腕の中から逃げ出した。


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