神様のいる町


祭囃子が聞こえる 5

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 竜神様に肩を抱かれて客席に戻ると、まひるさんが心配そうな顔をして飛んできた。
「まひるさん」
「大丈夫ですか?」
「ええ。……ごめんなさい。ご心配おかけしました。」
 本当に心配してくれていたらしいまひるさんに私は心の底から頭を下げる。まひるさんはいえいえ、と手を振りながら眉を寄せている。
「もう大丈夫ですから」
「……ほんとに?」
 念を押すように言うとまひるさんは小首をかしげた。
「ほんとうです」
「それなら良かったです。……あの」
 まひるさんは自分の浴衣の帯を見て、それからそれを指差しながら私の目をじっと見つめた。
「全然苦しくないし、着崩れなかったし、すごく助かりました。それに、髪」
「……結局遅刻させてしまって、すみませんでした」
 これにも頭をさげるとまひるさんは即座にそれを否定した。
「そうじゃなくて。丁寧に整えていただいたおかげで、今も全然くずれてないでしょう? 私の髪、お下げ以外にこんなに綺麗に整ったことがないから、今すごく嬉しいんです。ありがとうございます」
 にっこりと笑ってまひるさんは言った。まひるさんの笑顔はいつだって優しい。でも……
「結局まとめたのは、澄子さんで……」
「上半分だって、全然崩れてないですよ」
 私が落ち込んでいたから慰めてくれているのかしら。
 それでもどうしても聞いてみたいことがあって、私は恐る恐る切り出した。迷惑ばかりかけたけれど、役に立たないことばかりだったけれど、それでもほんの少しぐらいは。
「あのぅ……お役に、立てました?」
「はい!」
 少しのためらいめなく力いっぱい頷いてもらうと、現金なことに私はすっかりうれしくなってしまった。
「どうかなさいましたか?」
 ふいに私の背後に焦点をずらしたまひるさんが視線をあげた。つられて私も振り返って竜神様を見上げる。
「竜神様?」
 なんだか、様子がおかしい。竜神様はよそを向いたまま、答えてくださらなかった。あちらに何かみえるのかしら。
「こらこら、夜中に浴衣の女の子が二人だけなんて、危ないでしょうが」
 佐藤さんがやってきて、まひるさんと私の肩にぽんと手を置いた。
「た、孝弘さん、さつきちゃんの写真とか、持ってますか?」
 まひるさんが突然焦ったように大きな声をあげた。さつきちゃん? 学校で、そう呼ばれていたものだから、私は内心で首をひねった。
「ん? もちろんだとも!! あ、皐月さん、さつきって言うのはね、今日三カ月と五日になるうちの娘のことだよ。もうかわいくってかわいくってさあ!! 僕の指ぎゅっと握ってだーとか言って笑うんだよ!! いやあ、同じ名前の神社の巫女さんとお会いするなんて、すごい偶然だよねー!! 写真見る?」
 お子さんの名前が私と同じなのね。
 返事もしないうちに佐藤さんは胸ポケットから決して少なくはない量の写真を取り出した。
「これはね、産まれたばかりの時。隣に寝てるのはウチの奥さんね。それでこっちは……」
 目じりを下げた佐藤さんは一枚一枚の説明を事細かにしてくれる。その時の状況やさつきちゃんの様子、それにその日の天気まで……。
 化粧を落とした澄子さんがまひるさんたちの方に走って行った。澄子さん、助けて!
「お宮参り……は、終わってますね。同じ名前なのも何かの縁です。七五三の神社がお決まりでなければぜひ皐月野に。」
 なんとか、話の合間に口を挟んでにっこり笑ってそういうと、佐藤さんはちゃっかりしてるなぁと頭を掻いた。
「お祭りの間、カミ様の面倒を見てくださって本っっ当にありがとうございました。お時間ありましたら、どうぞ宴会の会場の方にいらっしゃってください」
 それだけ言うと澄子さんはまた小走りに社務所に戻った。
「宴会かぁ。お邪魔させてもらおうかな」
 佐藤さんはさつきちゃんを思うのとはまた別のうれしそうな表情をして見せた。



「皆様のおかげで今年の秋祭りも無事に終えることが出来ました。本当にありがとうございます。ささやかですが、どうぞお楽しみください」
 澄子さんがグラスを持ち上げると、「乾杯!」と音頭があがった。グラスがぶつかる涼やかな音がして、賑やかに宴会が始まった。
 私はお隣に座るまひるさんとジュースの入ったグラスをぶつけ合った。さっき、ビールを断っているのを見るまで、実はまひるさんは成人していると思っていた。まひるさんと澄子さんはどうやら同じぐらいの年らしいと知って私は驚いた。
 パキン、と割り箸を割って机に並んだ色とりどりのおかずに箸を伸ばす。合間に日本酒に菊の花びらが浮かんだ小さな朱塗りの杯をそろそろと持ち上げて、口元に運んだ。重陽の節句で、菊の花を浮かべたお酒を飲むと長生きをするのだと聞いたことがある。お神酒ぐらいは飲まなくてはいけないと、ぺろりと舐めてあまりの苦さに私はきつく目をつぶった。慌ててジュースを口に含んでごくりと飲み込む。しばらく、じっと朱塗りのお猪口を見下ろして、私は右手にお猪口を、左手に継ぎなおしたジュースのグラスを握った。そうしてお酒を一気に飲み込んで、左手のコップに急いで口をつけた。
 喉が焼けるように熱い。それでもやっと義務を果たしたような気がして、私はほっと息をついた。
お酒は喉を焼いて、胃に流れ落ちたようだ。なんだか胃が、形がわかりそうなぐらい温かくなった。そのうち、体全体がぽかぽかと暖かくなってきた。
 かくり、と首が落ちるのを感じて、はっと顔を上げた。だめ、眠っちゃいけない……。けれど、そう思った端から瞼が重く落ちてきた。

 私の記憶に残っているのはそこまでだ。
「……あ、れ……?」
 体にかけられた掛け布団をめくって起き上がると、橙色の柔らかな光を放つ豆灯の下に、まひるさんと澄子さんの寝顔が見えた。ああ、ここは澄子さんのお家の6畳間だ。……だけどどうして? どうやって私はこの部屋にきたのかしら。
 三つ並んだお布団を踏まないように爪先立ちで歩いて、そっと廊下に出ようとしてぎょっとして足を止める。部屋の隅で光る金の目と目が合った。足がすくんだ。
 よくみるとそれはうずくまって顔だけあげてこちらを見ているしずちゃんで私はほっと胸をなでおろした。
「どうしたの?」
 眠っている二人を起こさないように息だけで囁いて尋ねるとしずちゃんはなんでもないと首を振った。なんでもないと言うわりにはもじもじと体をゆらしている。私はあることに思い当たって、そっと障子を開いた。
「しずちゃん、私、トイレに行きたいのですけれど、少し怖いのです。ほら、澄子さんの家って暗いでしょう」
 だから、と言葉を継いでしずちゃんを逆に見つめ返した。
「もしよければついてきてくださいませんか?」
 タッと軽い足音が駆け寄って小さな手のひらが人差し指をきゅっと握った。
 窓の外で庭木が揺れたり、犬の遠吠えが聞こえる度に指を握る力が強くなるのを感じて私はひっそりと笑みを浮かべた。
 無事にトイレにたどり着き、二人とも用を足して部屋に戻るとしずちゃんは一目散に澄子さんの布団に潜り込んだ。澄子さんはかすかにうなって、寝返りをうった。
 私は、あと一時間もすれば夜が明けると思ったら眠れなくなって窓の外を眺めて過ごした。
 社務所も拝殿もまだ明かりがついている。社務所はさすがにもう、動く影はなかったけれど、拝殿の明かりはたえず揺らめいていて、かすかにお囃子が聞こえたような気がした。まだ神様の宴会は終わっていないのだ。

 チチチ……と鳥が鳴き出して、やがて東の空がかすかに明るくなってきた。いつもの習慣が身に付いているのか、澄子さんがのそりと起き上がった。
「おはようございます、澄子さん」
 まだ眠っているまひるさんを起こさないように小声で澄子さんに声をかける。
「ん、あぁ、薫ちゃんおはよー」
 んー、と伸びをした澄子さんに私は疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「あの、澄子さん。私は昨夜、どうやってこの部屋に来ました?」
 振り向いた澄子さんは何かをたくらんでいるようにニヤニヤと笑い出した。
「知りたい?」
 はい、と私は頷いた。
「まひるさん起きてー。薫ちゃんがねぇ、昨夜どうやって部屋に帰ってきたか知りたいんだって〜」
 弥生の神様にどこか似た、いじわるな表情で澄子さんはまひるさんを起こすふりをした。慌てた私を見て小さく笑い出し、本当に知りたい? と首をかしげる。はい、と頷くと澄子さんはまひるさんの足元をまたいで、私のそばに来てそっと耳元に手をあてた。
「眠っちゃった薫ちゃんをここまで運んでくださったのはね、」
 そこでじらすように言葉を切って、澄子さんは一度耳元から顔を離した。運んでくださった、という澄子さんの言葉遣いに私はなんとなく予想がついた。
「竜神様がここまで薫ちゃんを運んでくれたのよ〜。お・ひ・め・さ・ま・だ・っ・こ、で。」
 耳がかっと赤くなったのを感じて、慌てて耳を隠す。そのまま澄子さんに背中を向けて顔をうつむけた。
 ヴゥゥゥ、ヴゥゥ……、まひるさんの枕元に置かれた携帯電話が突然震えだして、驚いた私と澄子さんは顔を見合わせてまひるさんを見た。
 にょ、とまひるさんの布団から手が伸びて携帯電話をつかむとそのまま布団の中に引き込んだ。鈍いバイブ音は止まって、代わりにまひるさんが掛け布団から顔を出した。
「おはようございます」
「おはようございます。よく眠れました?」
「はい、おかげさまで。……薫さん? どうされたんですか。顔が真っ赤ですよ?」
「なんでもありません!」
 私は慌てて顔の前で手を振ってぽす、と布団に倒れこんだ。
「ええ、たいしたことはないんですよ。ただ、薫ちゃんが昨夜どうやってここに帰ってきたのかと聞くものだから」
 相変わらずのにやにや顔で澄子さんが面白そうにまひるさんに言うものだから、私はまひるさんにも顔を覗きこまれるはめになった。



「いやー、おかげさまでいい写真が撮れましたし、いい記事も書けそうです!!」
 ワゴンに荷物を詰め込み終えた、佐藤さんが澄子さんに頭を下げた。
「お役に立てて良かったです。本当は観光組合の組長さんもいらっしゃるはずだったん、で、すけど……」
 澄子さんは遠い目をして、宴会会場になっていた社務所に目をやった。
「夏には皐月神社でも、大きなお祭りがあります。もしよろしければ、来年はぜひいらしてくださいね」
 私の言葉に、まひるさんは笑顔で頷いた。ぱたぱたと、澄子さんの家からしずちゃんが駆けてきた。そうしてまひるさんの前に立ち止まって、もの言いたげにまひるさんを見上げる。まひるさんはすっと腰を落として、「何?」と問いかけた。
「弥生神社は、……梅の花が格別きれいなんです」
「うん」
「春には私、見習いが終わるから、その……」
 まひるさんは何もかもわかっているよというようにしずちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうだね。たろうくんに持って行ってあげたら、きっと喜ぶよ」
 しずちゃんはうつむいたまま、小さく頷いた。
「なになに、たろう君って誰?」
 突然話に割り込んだ佐藤さんをまひるさんは追い返す。
「はい、孝弘さんエンジンかけて! 出発でしょ!! 午後から会議があるって言ったの、誰でしたっけ?」
 はいはい、と答えて佐藤さんは運転席に乗りこんでキーをまわした。朝の静寂にエンジンのかかる低い音が響いた。それに驚いたように、鳥がばさばさと飛び立った。
「いやいや、なかなか面白かったぞ。来年の梅を、また見にくると良い」
「弥生町はその名の通り、三月が一番きれいな町ですから」
 神様と澄子さんに言われて、まひるさんたちは顔を見合わせて同時に頷いた。
「今度は取材じゃなくて、遊びに来ます。薫さん、その時には皐月町を案内してくださいね」
 え? 一瞬固まった私の背中を竜神様が軽く叩く。
「はい」
 私はなんとか立ち直って、首を縦に振った。さ、皐月の町ならきっと迷わないはず。なにしろ地元なのだから。
 まひるさんと田中さんも車に乗り込んだ。そうして車が見えなくなるまでみんなで並んで見送った。
「やれやれ、今年の祭りはにぎやかじゃったのう」
 ワゴン車が行ってしまうと弥生の神様は長々と伸びをして、何かを思いついたようににやりと笑って、澄子さんがこちらを見ていないか目を走らせた。それからぱちん、と指を鳴らした。
「雨?」
 空は晴れているのに、澄子さんは手をかざす。ぽつん、ぽつん、と雨が降り出した空を見上げて、それから思い当たったように神様に向き直って眉を上げた。
「……ま、今回ばかりはいいかしら。お餞別なんでしょう?」
 神様は素知らぬふりをしていたけれど、澄子さんはきちんとわかっていて苦笑した。
「雨は私の領域なのだがな。……薫、我らもそろそろ帰るとするか。」
 私は竜神様を見上げてこくりと頷いた。強い風が吹き抜けて、傍らから竜神様の姿が消えた。
「澄子さん、いろいろご迷惑をかけてしまってすいません。また皐月野にも遊びにきてくださいね」
「こちらこそ。いろいろお手伝いありがとうございました。お陰で無事にお祭りを終えることができました。」
 澄子さんと二人で、変に気取った挨拶を交わして笑いあう。
「あ! 虹」
 手で庇を作って空を見上げた澄子さんが小さく叫んだ。本性に戻った竜神様が泳いだ後に、立派な虹が架かっている。弥生神社の境内に一陣の強い風が舞い込んで、私の体をさらった。
「私のほうが粋だと思わないか?」
 弥生神社を遥か下に見下ろしながら竜神様の低い声を聞いて、私はくすくすと笑い出した。


 まひるさんたちが天気雨と虹に気がついてくれればいいねと私と竜神様は笑いあって、つかの間の空の散歩を楽しんだ。

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