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それぞれの道  3   




 レスターの後をつけさせた精霊が戻って来た。宿にはあと一つ角を曲がればたどり着く。時間帯は遅いがこの距離ならばリヴを一人で帰しても大丈夫だろう。そう判断したアガットは立ち止まって少年の手を離す。何事かとリヴが顔をあげた。
「リヴ、ごめん。用事を思い出したから、先に帰ってくれる?」
「どこに行くの?」
「ちょっとね」
 はぐらかされたリヴの不満そうな表情に、それ以上の追求を逃れるようにアガットは背を向けた。何か確信があったわけではないが、夕方倉庫に訪ねてきた女が話す組織の事が、妙に気になったのだ。セルマがあれほど子供達を巻き込む事に反対するには何か理由があるに違いない。
 精霊の案内にしたがって大通りを渡り、飲み屋が軒を連ねる通りに出る。その通りは、アガットにとって恐ろしい記憶につながる地域だ。意識せずとも足が重たくなり、歩みは自然と遅くなった。
 組織の事は少し気になっただけなので、必ずしも調べる必要などない。ここで引き返して何事もなかったように宿に戻ることもできる。しばしの間迷っていだが、何かに突き動かされるように、アガットは一つの路地に足を踏み入れた。術使いは精霊とつながっているためか、時折勘がひどく冴える事がある。予感がしたのかもしれなかった。
 一件の飲み屋の前でレスターは青年と話をしていた。その飲み屋の店構えはかつてのシルビアの家を彷彿とさせ、アガットの胸は痛みに疼く。
 その店をこっそりと窺うことができる小さな路地に身を隠して様子を見ると、レスターはセルマの前で見せたような飼われている猫のような甘えた態度ではなく、年齢相応の対応をしているように見える。精霊に二人の声を運ばせるが、ごくありふれた日常的な会話で収穫は得られなかった。
 昔の事を思い出した時や何か新しい事をしようとする時に、アガットは夜、眠れなくなる。飲み屋の店構えや路地の雰囲気があの時に似ているせいで、あの時の出来事を思い出してしまった。今夜はまた夢を見るのだろうとアガットは憂鬱なため息をついた。せめて、目的が達成できれば報われるものを。
 噂話は本人を呼び寄せると言うが、思い出した出来事も、同じように人を呼び寄せるのだろうか。ちょうど店から出てきた二人組を見つけたアガットは、あまりに驚き過ぎて言葉を失った。
 見間違えるはずがない。大人になった今でもまだ見上げなくてはならないほど長身の二人組を忘れられる訳などなかった。二人はレスターと青年に別れを告げると、アガットのいる路地の方向にやってきた。
 あまりに驚き隠れ損ねたアガットと二人は鉢合わせた。
「こんばんは、いい夜ですね」
 酔っているのだろうか。細身の男が帽子を軽く挙げて陽気に会釈する。その表情が、通りすがりの見知らぬ娘の向けるものから、何かを探るものへと変化してゆく。
「……まさか」
 瞬きをすることすら忘れて、アガットは二人を凝視した。自分の容姿にはまだ幼い頃の面影が残っているだろうか。
「……もしかして、シルビアかい? 驚いたな、若い頃のレイリョウにそっくりだ」
 まだ二人がこの界隈に住んでいたとは。彼らの存在は、あの忌まわしい事件を思い出させる。けれども同時に二人はアガットに安心感をもたらす年の離れた兄のような存在として記憶に残っている。懐かしさに頬がゆるんだ。
 不精ひげが頬に目立つ虎呂がにやりと笑った。笑い皺が目じりに薄く現れて、彼らの上にも等しく年月が流れた事をアガットに教える。
「ダグ、たぶん違うぞ。シルビアなら、もっとおしとやかな娘になってるだろうよ。間違ってもこんな時間に出歩かないだろ。――よう、嬢ちゃん。また迷子か?」
「違うわよ。虎呂、あなたは相変わらず人をからかうのが好きな様ね。ダグラス、あなたは相変わらずハンサムね。役者みたい」
「覚えていてくれたのか」
「もちろんよ。忘れっこないわ。……あの時はごめんなさい。ずっとあやまりたいと思ってた」
 虎呂とダグラスは顔を見合わせる。
「気にするな」
 幼い娘にするように、虎呂の大きな掌がくしゃりとアガットの髪をかき混ぜた。
「それにしても、相変わらず出歩いているんだね。皇女って宮にじっとしているものじゃないの? 仕方がないお姫様だね」
 ダグラスも呆れた顔をしていたが、責める表情ではない。
「……そういえば、あの時、シルビアのお母様もわたしが皇女だってこと知っていたわ。なぜ?」
「なんだ、全部わかっていて返事をしに来たのかと思ってた。俺らの事はまだ知らないのか」
「そうだね、僕らの事まで話さない約束になっているはずだし。この短期間にここまで関係を調べられたら僕らも困る」
「昔のままのあんたなら、表には立たずに陰から皇子を支えるのだろうし、皇女に話を持っていく事は勧めないと言ったんだが、彼らは聞いてくれなくてな」
 アガットは内容を知っている事を前提として話が進んでいく。まったくテーマが見えず、まるで真夜中に明かりもつけずに探し物をしているようだ。アガットは話を遮った。
「ねえ、ちょっと待ってよ! 一体何の話なの」
「ホープコートの領主があんたの所に話に行っただろう」
「ドリュのこと? 話って一体何の?」
「あれ、まだ話が行っていないのか。皇女が客を全く取り次がないって噂は本当なのか?」
「全くって事も……ない、けど」
 確かに城の中に余計な人間関係を作らないように断ってはいたが、全く取り次がなかったわけではないし、誰が面会を希望したかぐらいは把握している。けれども、それは花祭りより以前の話だ。皇女が不在の今は全ての客を断っているに違いない。
「街じゃ、クリエーナの皇女殿下はたいそう変わり者だって噂が立ってる。このままじゃ嫁の貰い手がなくなるぞ」
「余計なお世話よ。それで、ホープコートの領主が一体皇女に何の用?」
「話が長くなる。場所を変えないか?」
 言葉尻に疑問符がついていたが、アガットに選択権はないようだった。意思疎通に余計な会話の要らない二人は、相棒と顔を見合わせるとアガットの先に立って歩き出した。




 コトン、と湯気の立つティーカップが机に置かれる。
「どうぞ。このハーブティーは僕の奥さんのお手製なんだ。おいしいよ」
「ありがとう。結婚していたの? 意外だったわ」
 案内されたのは、辻を二つほど西に行ったところにあるダグラスの家だった。通されたのは居間で、そこからちらりと見えるキッチンはかわいらしい手作りの小物があふれていて、ダグラスの妻がまだ年若いのではないかと想像させる。
 虎呂は何度も来ているのだろう、慣れた様子で勝手に戸棚を漁ると炒って蜂蜜をからめた豆の入った瓶を持って戻ってきた。
「うん、二年前にやっとね。今日は留守にしてるんだ。だから、密談にここを選んだんだけどね。また機会があったら紹介するよ。さて、もう夜も遅いし僕らは世間話に花を咲かせるために机を囲んだわけじゃない」
 ティーカップからは頭を冷静にするようなスッとする香草と、溶かした蜂蜜の甘い香りがする。両手で包み、息を吹きかけて冷ましていたアガットは顔を上げた。
「虎呂、君の話から始めてもらってもいいかな」
「はいよ」
 虎呂は瓶から取り出した豆を数粒口の中に放り込むと、ばりばりと音を立てて噛み砕いた。甘くて香ばしい香りが部屋に広がった。
「俺が伊羅人だって話は、初めて会った時にしたよな」
「ええ」
「なんでよそ者がクリエーナにいるのか不思議だっただろう? クリエーナがごく一部の学術的な交流なんかを別にして他国と交流しなくなってもう六十年ほど経つ」
 クリエーナの扉を閉ざしたのは先々代の皇帝だ。後に臆病者だと評された彼は、周囲の国々の情勢が不安定であった時期に、国交を閉ざす事で国を守ろうとした。それから月日は経ち、国を閉ざす理由がなくなっても皇帝と国の重鎮達は扉を開こうとはしなかった。
 十九年前の大凶作の年、現皇帝が大国サザローズの姫君を大量の穀物という持参金付きで娶ったことが唯一と言ってよい進歩である。
「そんな国では、自分の国で手に入らないものが高く取引される。俺の親はそういう商売をしていたんだよ。規制が厳しくなって、国境の警備がきつくなったせいで俺と両親は国に戻れなくなった。俺の生まれは伊羅だが、もうクリエーナで暮らした時間の方が長いんだ。そのうちにこの国が気にいっちまってな。レイリョウの店でこいつと出会って、意気投合したってわけさ」
 カルビエとカリョナが城を抜け出した花祭りの夜、彼らはカリョナが皇女である事にすぐに気がついた。つまりは、それだけの情報網をその時点で持っていたということだ。彼らは二人とも魅力的な人物だ。アガットは二人が作り始めた組織がたちまちのうちに大きくなって行ったことを簡単に想像することができた。
「ホープコートの領主が連絡を取ってきたのは今年に入ってからだ。クリエーナの国内はもうこの有様だから、国内には大小いくつものこんな組織がある。僕らの組織は結構長くて大きい方でね。僕らも地道に活動を続けてきたけど、議会で大きな発言権を持つ人物との繋がりが作れなかった。ホープコートの領主は皇子と仲が良かったと知ってね、今はそれほどではないにしろ、将来的に大きな発言権を持つんじゃないかと読んで、繋がりが作れやしないだろうかと思ったんだ」
「だが、話してみると、やつらは少々過激でその上に性急すぎた。何十年も変わらなかった事は、そんなにすぐに変えられるものじゃない」
 話の合間に、虎呂の口の中に放りこまれる豆の音が耳についてうるさい。それでも、その音がなければあまりに静か過ぎるに違いなかった。
「話し合いはなかなか進まなくてね。意見の合わない事も多すぎた。ホープコートの領主は、皇女を表に立てて議会に乗り込むつもりのようだ」
「どうして、カルビエと話をしないの? カルビエは頭の固い怖がりの古狸達とは違うもの。仲が良いなら、わたしに話を持ってくる前にカルビエに話すべきだわ」
「それは、本当に仲が良いと仮定しての話だが、ホープコートの領主が確信を持って皇子が反対するとわかっているか、それを確かめる事が怖くて、比較的安全なカードを引こうとしたかのどちらかだろうと考えている。どちらにしても、皇女に話を持っていく以上、皇子に話は筒抜けだろうと忠告はしたんだが。……ああ、もう一つ。直接皇子に話す勇気がなくて、皇女に話せば皇子にまで話が行く事を期待していたのかもしれないな」
 ようやく飲める温度にまで下がったカップを口元まで運び、アガットはため息をついた。
「……どうして、みんなわたしのことは放っておいてくれないの。政治向きの事は全部カルビエの担当よ。役割分担しないと混乱の元になるだけなのに。言い伝えを事実にするつもりなのかしら」
 アガットが未だに割れ子の言い伝えを気にしている事に虎呂は眉をひそめたが、彼女はそれに気がつかない振りをして話を続けた。
「一番スマートに話が進むのは、カルビエがこの運動のトップに立つ事よ。国を動かすには議会の考えを変えなくちゃならない。皇位の第一継承権を持つカルビエに尻尾を振る貴族は大勢いる。ねえ、この事を、わたしからカルビエに話してもかまわない?」
「皇子は性急に事を運びすぎないか? 俺達は国を荒らしたいわけじゃない」
「国を荒らしたくないのはわたし達も一緒よ! 当たり前じゃないの。それに、ドリュから話を聞いてわたしが表に立てば、そっちのほうが国が荒れるわよ」
 そんな事にならないようにせっかく逃げてきたのに、とアガットは部屋の壁越しに皇宮のある方角に首を巡らせた。あそこに生まれた以上、あの場所から逃れる事はできないのかもしれない。離れても巻き込まれるならば、そばにいたほうがまだ安全な策を考える事ができるだろうか。
 お茶を飲み干すと、アガットは椅子を引いて立ち上がった。
「ねえ、あなた達に連絡を取りたいときはどうすればいいの?」
「さっきあんたがのぞいていた店に来ればいい。夕方に必ず俺らのどちらかが顔を出すから」
「わかったわ。あわただしくごめんなさいね。必ずまた連絡をするわ」
 ダグラスがアガットが帰ろうとしている事を読み取って、玄関まで先導する。
「ねえ、最後に聞いてもいい?」
 ダグラスが開いてくれた扉から外に出て、アガットは振り返った。
「何をだ?」
「どうして、ドリュに自分たちのことはまだ話さないように約束させたの?」
 ああ、と虎呂が小さく笑う。
「それは、あんたの意思で決めて欲しかったからだ。昔のちょっとした知り合いだから、とかそんな理由で動いて欲しくなかった。だが、そんな心配は要らないようだな。今日あんたと話をして、そう思った」
「今日はありがとう。会えて良かった」
 家々の間から篝火でぼんやりと姿を浮かび上がらせる皇宮が見える。アガットは二人に背を向けると、ゆるい坂道を登って、花祭りの夜に背を向けた場所へと歩き出した。



 夜会を途中で抜けさせてもらい、疲れきってカリョナの部屋に戻ってきたシルビアは、小さく悲鳴を上げた。誰もいないと思っていた部屋に先客がいたからだ。
「姫さま!」
 今、一番会いたかった人物に会うことができ、シルビアの体から力が抜けた。
「私、どうしたらいいかわからなくて」
 シルビアは床にぺたりと座り込み、両手で顔を覆って小さくうめいた。それを見て、自分の部屋に忍び込んだアガットも戻るのが少し遅かったかと、息を吐いた。
「ドリュに何か聞いたのね?」
 アガットにはなぜ参加する事になったのかはわからなかったが、シルビアは見るからに夜会に参加したとわかる服装をしている。アガットはシルビアの肩を抱いて、ソファに座らせた。
「私、どうしたらいいかわからなくて。姫さまは私が何を聞いたかご存知なのですね」
 嵐の夜の川に落ちたかのように、力のある奔流に何の覚悟もなしに巻き込まれた恐ろしさに何度も言葉を詰まらせながら、できる限り正確に事実を曲げないようシルビアは舞踏会の夜の話を伝えた。
「わたしは、今日偶然別のルートから話を聞いてね。まあ、理由は色々考えられるのだろうけど、やっぱり仲の良いはずのカルビエに話を通さない所を見ると、あんまり良い事は予測できないのよね」
 シルビアに別のルートの話をかいつまんで聞かせながら、アガットは部屋の隅まで行って、二人分の飲み物を用意して戻ってきた。
「ドリュは、もしかすると強欲に食料を溜め込んでいる領主を襲うとかそんな事も考えているのかもしれない。この世界で水面下で何かを打診するってことは、もうその打診に失敗しても何らかの策があるということか、それかまだ何も考えていないかどちらかよ。誰一人表立って言わないけれど、この城でわたしとカルビエが割れ子だと知らないものはない。その陰にいるほうの片割れにだけ声をかけるのは、やっぱりなんらかの胸を張れない計画があると考えられると思うの」
 シルビアは固く目を閉じてほぐすように目頭をこすると、小さくため息をついた。
「……でも姫さま、姫さまは街の事を知っても、何も思わなかったのですか。ドリュ様の話を聞くか聞かないかは別として、何かできる事があったのではありませんか?」
「何かって?」
「姫さまは、皇女ではありませんか。どうして何もしようとはしないのですか。姫さまだったら、あんなばかげた言い伝えなんて信じないって言い切りそうなのに」
 まっすぐな視線が、アガットに向けられる。この皇宮に身を置いて、もう十年も経つというのに、どうしてそんなに真っ直ぐな目をしていられるのだろう。アガットは不思議でしかたがなかった。
「シルビアも馬鹿ね。ああいう誘いが初めてだと思ったの? 今まで何も起きなかったのは、わたしが話も聞かず、返事もしなかったからよ。言い伝えなんて、信じないと思いたいところだけど、周りが放っておいてくれないわ」
「だからって……」
「わたしは、カルビエを信じてる。政治の事はカルビエに任せてあるの。シルビアはいつもわたしに何とかするように言うけれども、カルビエには何もできないと思っているの?」
「いえ、そんな」
 シルビアは首を振った。一度では足りずに、二度、三度と首を振って俯いた。
「そんなつもりでは……。ただ、カルビエ様のそばに信頼できる人がいればいいな、と……」
 アガットは小さく笑った。抑えた笑い声はしばらく続き、その間シルビアは顔を上げる事ができなかった。
「これで、話は振り出しに戻ったわね。やっぱりあなたがカリョナになればいいのよ。言ったでしょう。あなたにカリョナの全部をあげるって」
「だけど、今さっき姫さまは自分が何もしなかったから、何も起きなかったと」
「カルビエのそばにいるのが割れ子の片割れでなければ、わたしは余分な心配を何一つしなくてもいいのよ。そんな言い伝えを信じない。そう思っていたって、それが真実であるかどうかなんて誰にもわかりはしない。わたしはクリエーナを失いたいわけではないんだもの。確信の持てないものに賭けてクリエーナが荒れたらどうするの。だけど、カルビエの事も大好きなの。大切な片割れの元に、信頼できる誰かがいてくれれば、わたしはそれだけ安心できるわ。シルビアがカルビエの事を大切に思ってくれているのは知っているから、その点では何の心配もしていない。わたしはシルビアを信頼しているのよ。……話を戻すわ。街の事は何も思わないの、って話だったわね? 何も思わなかったらこんなところに戻ってなんて来ないわよ。わたしは、組織の話をカルビエにするために戻ってきたの」
 絶対に家出をした事を怒られるだろうと思うと少々憂鬱ではあったが、アガットは精霊に命じてカルビエを呼びに行かせた。

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