目次

それぞれの道  2   




 シルビアは困り果てていた。下着姿で大きな鏡の前に立たされ、周囲の台の上には色とりどりのドレスの山ができている。
「これはどうかしら。気に入らない?」
「イザベラさまも、なぜ……」
 皇妃は微笑んだ顔のまま少しだけ眉根を寄せた。けれどもそれは本当に困ったり、嫌がったりしているわけではない、パフォーマンスとしての表情であることはすぐにわかる。
「カルビエからのたっての頼みなのよ。あの子がわがままをいうなんてめずらしいの。付き合ってやってくれないかしら」
「元より姫さまは夜会などに顔を出したりなさらないではありませんか。どうして公式の行事でもないのにそのような」
「こんなもの、夜会のうちにも入らなくてよ。まあ、いいじゃないの。一度くらいお姫様ごっこを楽しんだって罰は当たらないわよ」
 くすくすと小鳥がさえずるように皇妃は笑う。
 一度くらいのお姫様ごっこ。それは確かにシルビアが自身で言った言葉だ。正確には「一度くらいはお姫様に憧れるもの」だっただろうか。どうしてこの方達は聞き流してもまったくかまわないようなほんの小さな言葉まで拾ってくるのだろう。シルビアは鏡越しに皇妃を見つめる。それに気がつくと、イザベラはおっとりと微笑んだ。
「あの子はこういうことをさせてくれないから、わたくしもとてもうれしいのよ。それともやはり迷惑かしら」
 すでに一度はシルビアの体に当てたはずのドレスを再び持ち上げ、やっぱりこれは派手すぎるわね、こっちは少し地味だわ、と選ぶ皇妃は鼻歌を歌いださんばかりにうきうきとした楽しげな様子で、シルビアはそれ以上文句を言えなくなってしまった。彼女の娘はこのような事を嫌い、術使いの塔に閉じこもって表の世界にはあまり顔を出そうとはしないのだから。
 色彩の洪水の中から、イザベラが選んだのは、少しずつ色の違う薄い緑の薄絹をふわふわと何枚も何枚も重ねたドレスだった。
 夜会用の華やかな化粧をほどこされ、髪の毛をいじられて、それからおずおずと薄い緑に腕を通した。さらりとした感触は、シルビアの持つどんな服よりも肌触りがよいように思えた。鏡越しではあるが、それらを手伝ってくれているイザベラを見ると、彼女は幸せそうな表情をしていた。皇妃ではなく、母親の顔をした彼女を見ると、シルビアも母を思い出して懐かしい気持ちになる。
「緊張しているのね」
「はい、ほんの少しだけ」
「落ち着いて。緊張する必要などないのよ。本当に、ごく内輪の小さな夜会なのだから」
 緊張をほぐすように、皇妃の手がシルビアの両頬にやさしく触れる。
「シルビア、もう一度カリョナの振りをしていて頂戴」
 耳元で優しい声がすばやくささやいて、皇妃は手を二度打ち鳴らした。現れた侍女に皇妃はアクセサリーを持ってくるよう言いつけた。
「首元が広く取ってあるから、大振りのネックレスがいいわね。淡いドレスの色を殺さずに引き立てる色がいいわ」
 そうして首には角度によって赤色に見える緑の大きな石がついた重たいネックレス、腕にはいくつも重ねたブレスレット、ドレスの裾で見えないというのに足にはアンクレットを。そして最後に頭に小さな飾りを載せる。
「あと、足りないものは」
「エスコート役だけだね」
 いつの間にか別室で盛装したらしいカルビエがそっとシルビアに歩み寄った。
「いきなりおどろいたかい。でも、先に言うときっとシルビアは断るだろう?」
「今でもお断りさせていただきたいぐらいです」
「本当に、内輪の小さな夜会なんだよ。女の子は一度ぐらいお姫様に憧れるものだって言っていたじゃないか」
「確かに言いましたけど、そのような意味では……」
 カリョナの身代わりをしなくてはならなくなった自分へのせめてものほうびのつもりなのだろう。カルビエの満面の笑みを見ていると、自分の方が悪い事をしているような気分になって、シルビアは反論する事をあきらめて手を取った。

 導かれて踏み入れた部屋は、物語の一幕のようだった。貴族の若者達が集まって行う夜会は、大掛かりな舞踏会に劣らず華やかだ。立食式になっていて、テーブルの上には色とりどりの食欲をそそる軽食が並んでいる。
 天井からはいくつものガラスと一緒に下げられた燭台がきらきらと光をはじいて部屋を昼間のように明るく照らし、すでに踊り始めている男女を輝かせている。壁際には疲れた時に座れるように柔らかなクッションを添えた椅子があった。
 夜会の主催者とめったに公の場に姿を見せない皇女の登場に、広間が小さくざわめく。カルビエはそれに応え、シルビアをエスコートしながら広間を一周回った。
「姫、お手を」
 ちょうど一週したころ、音楽が切り替わり、カルビエが芝居がかった仕草で跪く。
「でも私、ダンスなんて」
「学校で習わなかった?」
「在学中にダンスの授業はありましたけど、そこで踊ったきりですもの」
「シルビアは、身が軽いからきっとすぐに思い出すよ。ほら、行こう」
 カルビエは、半ば強引にシルビアの手を引いて広間の中央に導いていく。不安な表情を隠せないシルビアの顔を皇子は覗き込んだ。
「安心していていいよ。心配する事なんてない。ダンスなんて、リードする方がうまければ少しも踊れなくったって大丈夫だからね」
 自信たっぷりのカルビエの言葉に、シルビアの表情は緩み、小さく笑い声を上げた。
「随分、自信たっぷりですね。それではお任せすることにします」
 手を離すと、三歩ほど離れて向かい合う。
「幸いな事に、この曲はおさらいにぴったりだ。さて、基本のステップはどうだったかな? 曲をよく聴いて僕の真似をしてみてごらん」
 右足、右足、左足。左足、左足、右足。カルビエのステップを見ながら、シルビアは記憶の彼方に埋もれかけた動きを思い出してゆく。
「この曲は片方がしたステップをもう片方が真似していく曲なんだ。知っている?」
 二つのフレーズが追いかけあう軽快な曲は、踊る事が大好きな若い男女が楽しむために作られた作品だ。まるで挑発するように基本のステップから少しずつ複雑なステップに変化してゆき、どちらが最後まで踊れるかを競うのだ。大抵は曲の途中で失敗してしまい、それ以上はステップが踏めなくなり、大きな輪になって最初の基本の三拍子のステップでリズムを取りながらフロアで一番ダンスのうまい一組が中央で踊りきるのを見守る事になる。
 最初はたった三拍だった動きが次第に長くなり、九拍に、十五拍にと、どんどん長くなっていく。涼しい顔をしているカルビエに対して、シルビアは、思い出しながら必死でカルビエのステップを覚えてまねをしなくてはならず、軽く息が上がり、じわりと体が熱くなってくるのを感じた。
 いつの間にか二人が最後の一組になり、今のダンスに参加せずおしゃべりに花を咲かせていた者達もギャラリーとして二人を取り囲む輪に入ってくる。曲はだんだんとテンポを上げ、シルビアはとうとうついて行けなくなってステップを間違えた。シルビアは弾む息の下でカルビエと手を取り合い、ギャラリーに向かって礼をする。すると、二人に対して賞賛の声と拍手があがるのだった。
「自信たっぷりだった理由、思い知りました」
「こっちこそ驚いたよ。ちゃんとステップ覚えてるじゃないか」
 手を取り合い、もう一度ギャラリーに向かって礼をすると二人は壁際に戻り、並んで椅子に腰掛けた。
「僕の方が負けるんじゃないかと思わず不安になったよ」
「私はついていくのに必死だったんですよ! 初心者なんですから、もう少し易しくしてください」
 落ち着くと広間の様子をゆっくりと見ることができた。
 二十組ほどの同じ年頃の男女が広間にいたが、踊っているのは数組で他はもっぱら集まって話をすることを楽しんでいるようだ。女の子達はみな華やかで、流行のドレスをそれぞれ工夫して着こなしている。また、この広間にいる人達は、まだ特別な役職に付いていないものの、シルビアでさえ名を知る者も多い。
 立ち話を楽しんでいるグループの一組から、誠実そうな顔の男性が抜けてこちらにやって来た。シルビアの知らない人だった。
「カルビエ、久しぶりだな。今日は俺のためにわざわざ夜会をありがとう」
「別にドリュのために開いたわけじゃないんだよ。最近退屈していたから、なにかこういうことをする理由がほしかったんだ」
 同じ年頃の青年と話すカルビエを初めて見たシルビアは、目を軽く見開いた。歳相応の顔をして、笑ったり肩を組んだりと、ドリュとふざけあっている。
「カリョナ、紹介する。友人のドリュだ。言語学で有名な変わり者、サイザ卿の末の息子だよ。親も親なら子も子で、こいつももちろん変わり者でさ、学校を卒業してからはホープコートの領地にずっとひきこもっていたんだ」
 カルビエの紹介に、ドリュは丁寧に礼をすると、がらりと口調を改めた。
「お久しぶりです、姫。幼い頃にお会いしたきりですね。美しくおなりで驚きました」
 そんなことを知るよしもないシルビアが助けを求めてちらりと見上げるとカルビエは安心させるようにそうだよ、と微かにうなずいた。
「ひどいな、覚えていらっしゃらないのですね?」
 気にさせないためかおどけた口調で軽く言うと、ドリュは人々の間を縫うようにして飲み物を配ってまわる給仕人から自分とシルビアの分のグラスを取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。――ところで姫はこういった場所にはめったに現れないと伺っているのですが」
「兄様に強引に連れてこられたのですわ」
 拗ねた妹を演じて、冗談めかした恨みがましい視線を向けると、カルビエはにっこりと笑ってなだめるように肩を叩く。
「こういう場にまったく顔を出さない妹を心配しての事じゃないか。本日は、本当に内輪の会だから、心配する事はないって何度も言っただろう」
 最後にグラスを取ったカルビエと三人、グラスをあわせて口をつける。ほのかに甘く冷たいお酒は口当たりがよくまだ火照っている体に気持ちがよい。
「近いうちに、お会いしたいと思っていたのです。このめぐり合わせに感謝しなくてはいけませんね。お近づきの印にどうか、一曲おつき合いくださいませんか?」
 どうしたものかと一瞬迷い、シルビアは結局差し出された手を取った。思い出しつつあるステップを踏みながら、途切れる事のない音楽にさりげなくのってフロアの中央に導かれる。先ほどとは違ったゆったりとした音楽に身を任せ、時折くるりと回ったり離れたりとを繰り返す。
「カリョナ姫、本当にお会いできてよかった。ラピスに出てきたのも、姫にお会いするのが目的の大半でした。なかなか取り継いでもらえないと伺っていたので、どうしようかと途方にくれていたのですよ」
 しばらくして、ドリュが耳元でそっとささやいた。絡んだ視線は熱っぽく、目をそらせなくなってしまう。
「どうかそのまま続けて。聞いてください」
 驚いて立ち止まりそうになったシルビアは促されて慌てて踊りに集中する。
 シルビアは身代わりで、カリョナではない。重要な話であれば、カリョナに、そして必要であればカルビエにも伝えなくてはならない。緊張に襲われ、シルビアはステップを踏み間違えて小さくよろけた。
 ドリュはそれをかばうようにしてシルビアの体を抱え込む。覗き込まれたドリュの顔はひどく真剣でシルビアは言葉を失った。
 聞いてくださいと言ったにも関わらずなかなか言い出さないドリュとの間の空気が息苦しく、シルビアはせわしなく呼吸を繰り返した。
「ドリュさま、お話とは?」
 じれったくなって尋ねるとドリュは覚悟を決めるように息を飲み込んだ。
「何からお話すればよいのか悩んでいます。――姫は」
 一度手を離してくるりと回り、ドリュの腕に戻る。
「……民の暮らしぶりをご存じですか」
 場の雰囲気にそぐわない内容に、シルビアは体温が一気に下がったような気がした。今までの浮かれた夢うつつの気分は一気に醒めた。ドクンドクンと心臓が暴れだし、頭の中では続きを聞いてはいけない、と警告音が鳴り響く。
「そのまま続けてください」
「ドリュさま、困ります。何も聞かなかった事にさせてください」
 シルビアはどうにかして断ろうとしたが、ドリュは話を始めてしまった。
「クリエーナは他国との貿易を長く行っておりません。そのせいで様々な事柄の均衡が崩れています。一番顕著なのは作物です。……十九年前の大凶作は皇妃様のおかげでなんとか乗り越えることができましたが、ここ十年ほどは国民すべてを養えていない状態です」
 どうしていいかわからなくなったシルビアは、ドリュに踊らされるままに話を聞いた。
「姫は、私の住むホープコートがどこにあるかご存じですか。ラピスから、馬でおおよそ五日かかる位置にある何もない田舎です。……ホープコートの民は皆飢えています。その周りの土地の民も飢えています」
「――お役には立てないと思います」
「かまいません。貴女のご身分をお貸し下さるだけで結構ですから。我々は立ち上がろうとしています。それには旗頭が必要なのです」
「……なぜ、皇子ではいけませんか」
 皇子は彼を“仲のよい友”だと紹介しなかったか。シルビアの問いに、ドリュは戸惑ったように瞳をそらして答えなかった。
 二人の間の奇妙な沈黙を、広間のざわめきが埋めていった。やがて、曲が終わりに近づいたのを感じて、シルビアはドリュに何かを告げなくてはと思った。かつてシルビアは、カリョナに何か行動するようにと訴えたが、ドリュの誘いは何か危険な香りがする。
「申し訳ございません、ドリュさま。私には何もできません。どうか何も聞かなかったことにさせてください」
 うつむいてしまったシルビアを見て、ドリュは表情を翳らせそれきり黙り込んだ。そして、シルビアをフロアの端まで誘導すると「よい返事をお待ちしております。よくお考えください」とささやき、自分はそのまま広間を出て行ってしまった。
 なんとかカルビエのところまで戻ると、シルビアはへたりとその場に崩れ落ちた。シルビアにそんなつもりはなく、慌てて立ち上がろうとしたが足はがくがくと震えて言うことをまったく聞かなかった。心配したカルビエが覗き込んでも、シルビアは「ダンスで疲れてしまって」と応えるので精一杯だった。

目次