目次

岐路 5   




「このおうちはね、ここらへんなの」
 扇形の鋭角に立てられているいくつかの円柱と立方体の組み合わせはおそらく皇宮。そこから敷かれた薄い四角の板がラピスの大通り。一の郭、二の郭と隔壁が並べられ、様々な大きさの三角や四角の木片が組み合わさって部屋の中に小さく不格好なラピスが再現される。
 シルビアは二の郭にほど近い大通りから少し離れた場所に四角の囲いを造り、そこに人形を置いた。子供達がよくする積み木遊びだった。こうして子供達は自分達の街の構造を理解し、街に対する愛情を深めていく。
「あなたのおうちはどこ?」
 薄い板を四枚持ってシルビアが尋ねる。その四枚の板がカリョナの家になるのだろう。
 カリョナは積み木という玩具を知らなかったが、シルビアが何をして遊びたいのかは薄々感づいていた。手渡された人形は糸の結び目でできたつぶらな瞳でカリョナを見上げている。カリョナが遊んでいるガラスの目と、陶器の肌を持つ人形とは大違いの素朴な人形だ。カリョナはその布人形のほうが、自分のものよりも温かみがあり、命が込められているような気がして、とても気に入った。
「わたしの家は……」
 わたしの家は皇宮です、など当然言えるわけもなくカリョナは人形を持った手を止めた。そしてにわかに思いつき、シルビアの家を模した四角を人形にノックさせた。
「こんこんこん」
 ここは私のうちなのに、と首をかしげるシルビアにカリョナは笑いかける。
「今日はシルビアの家で遊んでいるのだからシルビアのお家に遊びに行くの。ねっ」
 シルビアはたちまち顔中に笑みを浮かべ、彼女の人形は「いらっしゃいませ」と扉にあたる木片をずらした。カリョナの家を尋ねたことなどすっかり忘れてしまった様子だ。育ちはまったく違う二人だが、どちらも想像力豊かな遊び盛りの少女であることに変わりない。二人はすっかり意気投合し、夢中になって人形遊びを楽しんだ。


 無邪気な時間に終止符を打ったのは、カリョナに憑く精霊の悲鳴だった。
 その一瞬後に、雷のような大きな音が耳に聞こえ、床が揺れた。
 カリョナははっと顔をあげた。じわりと背中に嫌な汗が伝い、目の前が真っ赤に染まるほどの炎が見えたような気がして、シルビアの腕を引っ張って引き寄せる。腕の中で、シルビアが身をすくませて息を飲み込んだような声のない悲鳴をあげた。
 しかし、二人が出口にたどり着く前に、現実のものではなかった炎は、たちまち部屋の床板を餌として、本物の炎に姿を変えた。濃厚な炎の精の気配が部屋に満ちた。
 カリョナに憑いているのは木の精霊であり、炎は天敵だ。精霊は助けを呼んでくるといって消え去った。おそらくは、カリョナの師匠のところに行ったに違いなかった。
「おちついて、おちついて、おちつきなさい……」
 カリョナはぎゅっと目をつぶり、自分を抱きしめて己に言い聞かせるように呟いた。パニックに陥ってしまえば、事態を解決に導くどころか、余計にひどいことになってしまう。うわごとのように何度も何度も呟いて目を開く。炎の輪はそのわずかな間にずいぶん狭まっていた。隣でシルビアが煙のためか恐怖のためか、涙を浮かべた目を見開いて震えている。煙が喉に染み、二人は同時に咳き込んだ。
「水の精、良き友である木の精の守り子をお助けください」
 シルビアを守るように抱いて、カリョナは祈った。しかし祈りはうまく水の精霊には届かず、自分のほんの周りだけを守ってもらうぐらいで精一杯だ。
 師匠との訓練では、いつもどうしていたんだっけ、と必死で頭の中をかき回すが、練習の時ならばできるどんな簡単なことも思い出すことができなかった。
「大きな音が聞こえたんだけど。どうしたの?」
 カリョナの祈りを聞いたのは水の精ではなかった。
 静かに扉が開き、レイリョウが部屋を覗き込む。その表情は部屋の惨事を目の当たりにし、豹変した。煙が扉の方向へ流れ、レイリョウは咳き込んだ。それでも彼女はこの事態を何とか解決すべく忙しく頭を働かせ、何か使えるものはないのかと廊下と部屋に視線を走らせた。
 二階の廊下の突き当たりに飾ってある花瓶を見つけ、それを扉の前に敷かれたマットの上でひっくり返す。そして、部屋の中と扉を隔てる炎の帯に叩きつけるようにしてそれを敷くと「こっちへいらっしゃい!」と叫んだ。
 カリョナができたことはたった一つ。シルビアの背中を突き飛ばして、母親の元に返すことだけだった。
 火の精霊による炎が原因であること。この部屋では信じられないほどに早く燃え広がった炎が部屋から外へ燃え広がっていかないこと。今わかるこの二つだけでも、誰が原因でこの事態が起こったのか、師匠から耳にタコができるくらいに言い聞かされてきた事と照らし合わせれば、幼い身でも理解する事ができた。自分が行けば、炎は自分を追いかけてくるのだろう。自分は逃げても助からない。その事に気がついてしまうと、足がすくんで動く事はできなかった。
「あなたも早くいらっしゃい」
 レイリョウがわが子をきつく抱きしめて、カリョナを手招きする。
「早く! 敷物もじきに燃えてしまう。通れなくなるわ」
 カリョナは首を振った。口を開けば「助けて」と叫んでしまいそうで、首を振る事しかできなかった。動こうとしないカリョナを見て、レイリョウは唇を引き結んだ。
「待っていなさい」
 シルビアを抱き直すと、レイリョウは身をひるがえした。階段を転げ落ちるような足音は遠ざかり、じきにシルビアの激しい泣き声が聞こえた。カリョナはほっとして天井を仰ぎ、それをしたことを後悔した。天井を舐める火に焼かれて炭化しかけた梁が、暖炉の薪のように赤く不気味に光っている。それは今にも崩れ落ちそうで、少女の足を更にすくませた。汗が額を伝い、目にしみた。
 その濁った視線の先で、ミシ…と梁が少しずれ落ちる。火の粉と灰と木片が振りそそき、小さく悲鳴をあげてカリョナは身を縮めた。天井の梁のような太い木材がそれほど簡単に燃えてしまうはずはない。という事は、これは誰かが狙って意図的にしている事なのだ。身を竦ませたカリョナの真上で、パチン、と炎がはぜた。
 最後通告のように梁が軋んだ音を立て、それ以上見ていられずに少女は固く目を閉じた。
 不意に突き飛ばされてカリョナは目を見開いた。その瞬間、轟音と共に煙と埃と火の粉が舞い散ってカリョナは咳き込んだ。喉は焼けてしまったかのようにひりひりと痛んで、息をすることも苦しいぐらいだった。
 灰と埃がもうもうと舞い散って、カリョナは開きかけた目を再びつぶる。それが治まったころ、そろそろと薄目を開けた少女が見たのは、くすぶり続ける梁と、その下に足を挟まれたレイリョウの姿だった。
「ど……して」
 カリョナはくすぶる梁のところに駆け戻り、それをどかそうと体重をかけた。しかし子供に動かせるものではない。レイリョウは苦痛に顔を歪めたが必死に耐えていた。
「あの子は大丈夫? なんで戻ってきたの」
「間に合って、よかった。シルビアは、大丈夫。お客さんに預けて、ちゃんとみんなに……逃げて、もらった、から。じきに消防団も……」
 梁を押したり、蹴ったりと試してみるが、子供の力ではほんの少しも動かない。煙のせいではない涙が目じりに浮かび、カリョナは服の袖で乱暴に目元をぬぐう。
 レイリョウはうっすらと微笑みを浮かべカリョナの腕に手を伸ばした。その笑みは、すぐに痛みのなかに消えてしまう。
 どうしたら、火を消す事ができるだろう。師匠から今まで一体何を習ってきたのだろう。術による火傷の治療はどうやってするのだっただろう。そもそも、そんなことを習った事はあっただろうか。ぼろぼろと涙があふれ出て頬を伝う。
「もう、いいから、早くお逃げ、なさい」
 今にも炎に飲み込まれてしまいそうなのに、今日初めて会ったばかりの子供にどうしてこんなにも優しくすることができるのだろう。
「あなたには、生きる義務があるのよ。死なせやしない」
 レイリョウはごほごほと咳き込んだ。それを無理やり押さえつけて話し続ける。
「自分や、子供の、未来を託すのが、勇気と……優しさを、持った、あなたで、よかった。しっかり、兄君をお助けしてね」
 カリョナはごくりと息を飲み込んだ。飲み込んだつもりだったが、からからに乾いた舌が喉に張り付いただけだった。この人は、自分の素性を知っていて助けてくれたのだ。レイリョウだけでなく、虎呂やダグラスも気がついていたのだろう。
「なんで。わたしのこと……」
 レイリョウはありったけの力を振り絞って微笑んだ。
「さ、行きなさい」
 背中を叩かれて、あやつり人形のようにカリョナの足が勝手に立ち上がる。さっきまで腰が抜けていたせいか、まったく頼りなく、ただ立っているだけで足ががくがくと震えてしまう。
「立てた」
「……シルビアを、お願いね」
 カリョナが歩く後を、赤い炎が追ってくる。手も足も、頬もひりひりとして痛い。震える足で階段を下りる。想像通り、炎はカリョナを追いかけてくる。落ちるようににして降りてきた段の最後の三段目で足を滑らせて転がり落ちた。駆け寄る足音が聞こえ、カリョナは乱暴に体を抱え上げられ、店の外に連れ出された。
 赤々とした炎を見開いた瞳に写して、シルビアが泣いている。泣きすぎたためか煙を吸ったためか、もうその喉からはひゅうひゅうと隙間風のような音しか漏れず、さっきまでは音になっていた「おかあさん、おかあさん」と母を求める声は、もう口の形だけだった。
 二階の窓にだけ見えていた煙と炎は、カリョナを追って階段をくだり、店の敷物などを糧にして一階も炎の中に包み込んだ。
 街の大人たちが列を作り、店と用水路の間をバケツが何度も往復させている。花祭りの最中に起きた事件に、十重二十重の野次馬がわいわいと騒いでいた。そのうちにやっと術使いが到着し、精霊の起こす炎もすべて消えた。
 瞬きを忘れた目に写っている出来事全てがまるで劇のような作り物の事件にさえ思えた。カリョナとシルビアは、元は一人の人間だったのではないかと思わせるほどにぴったりとくっついていた。そうしないと、二人とも立っている事などできそうになかったのだ。
「この、馬鹿者が」
 シルビアが抱き上げられてどこかに連れて行かれたその後、背後からかけられた冷たい声にカリョナは振り返った。師匠のサエラがカリョナを見下ろしている。その頬に平手が飛び、カリョナは床にうずくまった。
「覚えておけ。おまえの身勝手があの娘の母を殺した。知らなかっただの、こんなことになるとは思わなかっただのとは言わせん。一人になるなと昔から嫌になるほど教えてきたはずだ。その危険性と理由も説明したはずだ」
「……はい」
「帰るぞ」
「はい」
 祭りの日は、街中に馬車を乗り入れる事ができない。今度はサエラに手を握られ、カリョナは重い足を引きずって街を後にした。
 カリョナが一人で街にいることを知ってから思いついた犯行であったためか計画はずさんで、すぐに足がついて犯人は捕まった。犯人は貴族の一人だった。皇族に危害を加えた、その罰は死罪である。犯人は最後までクリエーナの王宮に住む魔物を退治したかったのだと訴え続けていた。



 宮を出るのは、自分を、そして周囲を守る知識と実力がついた後。成人した年の花祭りの夜だと決めていた。シルビアに自分の振る舞いについて指摘された事が原因ではなく、ずっと前から決めていた事だ。花祭りは国一番の大きな祭り。宮の中は上へ下への大騒ぎで、誰一人として、いつも以上にカリョナになど目を留めない。また、十年前のあの日をやり直したいという思いもどこかにあったのかもしれなかった。
 カリョナは十年前にカルビエをそそのかして二人でこっそりと抜け出した隠し通路を、今度は一人で辿ったのだった。

目次