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岐路 4   




 赤々とした炎を見開いた瞳に写して、女の子は泣いている。泣きすぎたためか煙を吸ったためか、もうその喉からはひゅうひゅうと隙間風のような音しか漏れず、瞬きを忘れた目に写っている出来事全てがまるで演劇のような作り物の事件にさえ思えた。握り合った手と手は、大人たちが無理やりに離すまで、溶けてくっついてしまったように離れなかった。
 アガットは起き上がって、爪のあとが残るまで強く握り締めていた手をそろそろと開いた。手を離さなかったのは彼女か自分か。考えるまでもなくそれは後者に違いなく、彼女の運命を知らずにねじ曲げた自分の手が魔物のそれに見えた。やはり、いくらごまかしても呪いはなかったことにはならないのだ。
 久しぶりに彼女と顔を合わせたせいか、夢は更に鮮やかだった。頬を濡らす涙を乱暴にぬぐい、裸足のままベッドから抜け出して、窓の外に身を乗り出す。いつだって無意識に探してしまう悪夢の現場は、この宿からは大通りを挟んで反対側にあり、窓からは見えなかった。



 全ての始まりは、十年前の花祭りの日。



 おいしそうな香りに誘われて、カリョナは腸詰を売る屋台を覗き込んだ。
 手首ほどもある太い腸詰が鉄板の上でてかてかと光り、油のはぜる魅力的な音と肉に混ぜられたハーブの香りが言葉巧みな売り文句を演出している。覗き込むカリョナの頭の上を、小銭と商品が飛び交っていく。熱い鉄板の上から食べ時の腸詰を取り上げて注文に応じて紙に、あるいは薄切りのパンに包む。客から金銭を受け取って釣りを返す。どこからか新しい腸詰を取り出してきて鉄板に載せる。焼けたものをくるりくるりとまわして焦げ目をつける。屋台のおじさんは、手が何本もあるかのようにたくさんの仕事を一度にこなしていて、それでいてお客さんとのおしゃべりは一瞬たりとも途切れることはない。目をつぶっていてもまったく同じ動きができるにちがいないと思わせる手馴れた動作からカリョナは目を離すことができなかった。
「ねえ、カルビエ。これ食べない?」
 口の中にあふれるつばを飲み込みながらカリョナは言った。目を離せば、おもしろい場面を見逃すかもしれない。そう思うとたった一瞬でも振り返る事が惜しかった。
「カルビエ、聞いてるの」
 しかし何度呼んでも返事はない。あきらめて渋々振り返ると、そこには見知らぬ大人と子供しかいなかった。その誰もがカリョナとは赤の他人で、自分達が楽しむことに精一杯の彼らは、カリョナが連れとはぐれた事になどまるで気が付かない。
 あれほど魅力的だった腸詰屋がとたんにおもしろくなくなり、カリョナは屋台の前をふらりと離れた。
 人ごみの中、自分の分身を探しながらカリョナは大通りを海の方に下っていった。何しろ、兄をそそのかして連れ出したのだ。無事に連れて帰らなければ大目玉を食らってしまう。その脇を籠を抱えた子供達が、花びらを撒きながらきゃあきゃあと駆け抜けていく。道の端では道化師が火のついた棍棒を宙で躍らせ、その合間に器用に帽子を差し出してはおひねりを催促し、少し先の屋台では老人が飴細工の技を披露している。親からもらった小銭を握り締めてその技に見入る子供達の前で、ふわりとした蜂蜜の香りをただよわせながら、溶けた飴はみるみるうちに花になった。前に一度だけ食べたことがある。とろけてしまいそうなほどに甘い、甘い味がするのだ。
 祭りの日には興味を引くものが山のようにある。兄を探していることを忘れかけてはあちらに気を取られ、こちらに気を取られカリョナは道を進んでいった。ふいに、師匠がよく立ち寄る店にたどり着き、ラピスの街を一人で歩いたのはこれが初めてであることに気が付いた。町に行く時はいつだって師匠の姿が隣にあった。それも、何かに気を取られて少しでも傍を離れようとすればこっぴどく叱られたものだった。手綱を握る人物がいない、一人で歩く自由に気が付いてしまうと、兄を探さなくてはならないという思いはカリョナの頭の中からほとんど消えてしまった。自分がこんなに楽しんでいるのだから、兄も楽しんでいるに違いない。それに、どんな時だって守りの精霊がつけられているのだから、悪いことにはならないだろう。言い訳のようにつぶやくと、カリョナは花撒きの子供達が消えていった曲がり角まで戻って、その後を追った。
 花祭りで、花びらを撒いて練り歩くのは町の子供達だ。しかし花に魅かれる蝶々のように、祭り見物の旅人たちや里帰りをしている親についてきた子供達も花撒きに集まってくるので、カリョナが突然混ざっても、誰もが親しげに声をかけてくれる。
「よう、シルビア」
 その時、誰かがカリョナの背中を叩いた。敵意のない柔らかな感触に振り向くと、見上げるほど背の高い男の人が立っていた。彼とその連れは、祭りの見物客達から優に頭一つ分大きくて、とても目立っていた。
「こんにちは、シルビア。どうしたんだい、店の手伝いもせずにこんなところで……」
 言いながら、細身の男の人は目を丸くし、口を開いたまま固まってしまった。その言葉は途中で途切れてしまう。少し離れたところにいた彼の連れがカリョナの向かいにやってきた。カリョナに向かって挨拶でもするように片手を上げかけ、けれどもその手は中途半端な位置で止まってしまった。
「おい、ダグ。こいつはシルビアじゃないみたいだぞ」
 軍人のようながっしりとした体格の男は、上げかけた手をカリョナの頭にのせると、まるで知り合いの子供の頭を撫でる様にわしわしと無遠慮にかきまわした。
「驚いたな。ぱっと見ただけじゃほとんど同じだ」
 そして、窮屈そうに身をかがめるとカリョナの顔を覗き込む。
「俺は虎呂ってんだ。連れはダグラス。なあ、嬢ちゃんは迷子か?」
「ううん、迷子なのは兄の方よ。連れて歩いていたんだけど、勝手にどこかに行ってしまったの」
 虎呂とダグラスは黙って顔を見合わせた。それから、こらえきれなくなったように、小さく吹き出す。
「ほんとうよ!」
 事実、カルビエは街になど降りた事はなく、ここまではずっとカリョナが案内してきたのだ。それを、まるでわたしが迷子になったみたいに! しかしカリョナの精一杯の抗議は彼らの笑いを誘っただけだった。
「そんなに小さきゃ見つかるものもんも見つかんねぇぜ。肩車してやろうか?」
「肩車? なぁに、それ」
 カリョナが見上げて不思議そうに尋ねると男二人は顔を見合わせた。
「きゃあっ」
 こういうのだよと体が急に持ち上げられ、カリョナは小さく悲鳴をあげた。肩に乗せられ、恐々と瞳を開いてみると視界がとても高く、広い。大人の頭が目線よりも下にあるのがとても新鮮だった。こんな事は誰もしてくれなかった。そもそも、カリョナの事など気味悪がって母親と師匠以外に触れてくれる大人などいないのに。
「見つかりそうか?」
 見渡しても、赤銅色の髪の子供は見当たらない。
「ううん」
「よし、おじちゃんも探してやろう。どんな格好をしてるんだ?」
 カリョナは答えられずに俯いた。自分と兄の秘密をこの二人が知れば、どんな風に思うだろうか。
「目の色と髪の色はわたしとおんなじ」
「兄貴はいくつ年上だ? 背の高さは?」
 割れ子がどんな目にあうかなんて、自分が聞いていると知らずに周りがしていた噂話と師匠の話にしか聞いた事がなかった。なぜなら、割れ子であるのは周知の事実とはいえ、自分達は年子の兄妹だという事になっており、自分達の身分もあって、表立って誰もその事には触れないのだ。
 自分のことをおじちゃんといっていたが、おじちゃんというにはまだ若すぎる青年たちはとても親切で、優しそうで、カリョナは二人に告げてみることにした。
「同い年。……背の高さも一緒」
 一度の出産で二人以上の子供が生まれる事を『子供が割れた』と言う。クリエーナでは不吉なものとして割れ子は疎まれる。古く昔から争いの種だと伝えられて来たからだ。
「わたしたち、わ、割れ子なの」
 虎呂が手を振り上げる。恐怖を感じてカリョナは固く目をつぶった。体に触れたのは優しい手のひらだった。その手はそのままカリョナの体を持ち上げて地面に下ろす。カリョナを見つめる虎呂は小さな子供ではなく、一人前の大人を前にしたときのようなまじめなものだった。
「嬢ちゃん、俺の名前聞いて変に思わなかったのか?」
「コリョ?」
「俺の国の言葉で名を書くと、こうなる」
 虎呂は道の傍にしゃがみ込んで地面に指で線を引く。いくつも組み合わさった線は、カリョナの知らない記号になった。
「俺はな、伊羅人なんだ。俺の生まれた国には割れ子が災いだなんて言い伝えはないんだよ。俺には疎む理由はない。だから怖がる必要はないんだよ」
「伊羅人って! クリエーナの東の国の? どうやってこの国に入ったの? 何しに来たの?」
「おお、嬢ちゃんは賢いんだなぁ。この国以外に国があることをよく知ってる」
「ばかにしないで。わたし、勉強は好きなの」
 虎呂とダグラスは無言で顔を見合わせた。
「そりゃあ、たいそうめずらしい学校に通ってるんだな」
 虎呂はそれ以上、カリョナには何も言わなかった。カリョナは知らなかったのだ。他国との交流を持たないクリエーナの普通の学校では、外国に関する教育がほとんどされていないことを。虎呂は隣のダグラスとぼそぼそと何事かを話し、頷きあっただけだった。それから、再びかがみこんでカリョナを覗き込む。
「嬢ちゃん、おもしろいもの見たくないか?」
「まさかシルビアに会わせる気かい」
「おもしろそうだろ」
 カリョナの返事も聞かず、その手を引いて路地に入ってゆく。人でごった返す街も、裏に入ればさすがに人の数は少なくなる。ごく普通の口調で虎呂が尋ねた。
「嬢ちゃんはさ、兄貴とは仲がいいのか?」
「もちろんよ。カル……兄は、とーぉっても勉強がんばってて、何でもできてすごいんだから。わたしは、大きくなったら兄のお仕事を助けるのが夢なの」
「……迷信なんてのはな、国が変われば噂も聞かないようないい加減なものなんだぞ。そんなものを信じるな。兄貴の事が大好きだって、そういう気持ちを忘れなければ災いを引き寄せる事なんてないんだよ」
 虎呂はそれだけ言うと、三軒並びの店の真ん中の扉をくぐった。
「さあ、入ろう。驚かないようにね」
 ダグラスが押さえていてくれた扉をカリョナは通り抜けた。そのとたん、先に店に入った虎呂の影から顔をのぞかせた少女と目があった。十人も客が入れば一杯の小さな店だ。作り付けの机に座る常連らしい三人の客はその小さな出来事にすぐに気が付き、目を見張って二人を見比べた。
 カリョナと少女は顔を合わせた瞬間から、お互いから目が放せなかった。まるで金縛りにでもあったように突っ立ったまましばらく見つめ合っていた。背の高さも目鼻立ちもとてもよく似ていて、まるでカルビエが女の子の格好をしたかのようだ。しかしどちらかと言えば少女の髪の方が少しだけ色が濃い。
「すごぉい。かがみみたい」
 少女は恥ずかしそうに虎呂の足にまとわりつき、その陰からカリョナを覗き込む。
「迷子を拾ったんだ。そっくりだろ? 驚かせようと思って連れて来てやった」
 虎呂はニヤニヤと笑ってカリョナを見下ろした。どうやらカリョナを挑発して楽しんでいるらしい。“迷子”を妙に強調していうと、虎呂はサンダルを脱ぎ捨てて厚物の敷物に座った。
 この店は、クリエーナの文化を象徴した店だと言えた。西と東の国に挟まれたクリエーナは不思議な国だ。今では交流の絶えた西の文化と東の文化が、それぞれ溶けずに奇妙に交じり合ってクリエーナ独自の新たな文化を作り上げている。椅子と机は西の国の風習。椅子など使わずに、地面に座るための厚い敷物は東式の風習だ。
「迷子は私じゃないわ。兄の方よ。わたしは自分の家にちゃんと帰れるからね」
「そうそう、そうなんだ。彼女割れ子なんだって。その片割れとはぐれたらしいんだけどそっくりなのをどこかで見かけなかった?」
 クリエーナの民であるダグラスも、割れ子のことをあまりに自然に口にするので、カリョナの方が逆に驚いてしまった。宮の大人たちは、その話をする時は魔物でも見たような顔をするのだ。三人の常連客はそろって否と首を振り、そいつはぜひ三人並べて見てみたいと軽口をたたいた。不思議そうにするカリョナに向かって、彼らは守るべき財産のない平民は、金持ちほど割れ子を疎まないのだ、と教えてくれた。
「レイリョウ、ちょっと来てくれよ」
 ダグラスが呼ぶと、店の女主人は仕事の手を止めてカウンターの外に出てた。
「しばらく彼女を頼んでいいかな。彼女のお兄さんを探してあげたいんだ。彼女、おもしろいんだよ。虎呂の事を聞いてもあまり驚かないし、伊羅の事も良く知っている。何より割れ子なんだ。そして、シルビアに良く似てる。――それが何を意味するか、レイリョウならわかるよね?」
 ダグラスがレイリョウの耳元ですばやくささやくと、レイリョウは前掛けでぬれた手を拭きながら、カリョナの顔を覗き込んだ。
「お兄さんと花祭りを見に来たって?」
「はい」
「親御さんは? 一緒じゃないの」
 素性を聞かれるような質問は一番困る。カリョナは困ってしまって、答えられないままに俯いた。
「まさか、黙って出てきたの?」
「だから、迷子なんだろ。親と一緒に迷子だなんて聞いた事ない」
 カリョナは、虎呂が「な、そうだろ」と助け舟をだしたのにあいまいに頷く事しかできなかった。
「ま、この二人が探してくれるってなら確実だ。安心して待っているといいよ。シルビアと二階で遊んでな」
 にこりとカリョナに笑いかけると、レイリョウは男どもには冷たい水で割った酒を、子供達にはに果実水を振舞った。そのどちらにも、花祭りらしく花びらが浮いている。
 二人は出されたグラスを一気にあおると、扉に向かった。
「じゃあ行ってくる。ここでおとなしく待ってな。ちゃんと探してきてやるからな」
「お願いします」
 振り向かずにひらひらと手を振って、二人は店から出て行った。
 カリョナは自分と弟によく似た少女を改めて観察した。カルビエ以外にここまで自分に似た人間がいるとは思いもしなかった。見れば見るほど似て見える。カリョナに見られて、シルビアはもじもじと身をくねらせる。それからそっと手を差し出した。
「二階いこ。上でいっしょにあそぼ」
 何の迷いもためらいもなく、自分に話しかける人間にずいぶん久しぶりに会ったような気がした。侍女達も、話し相手にと連れてこられた少女達も宮の中で明らかに異分子であるカリョナには壁を作る。それは、割れ子であるからということだけでなく、カリョナの感情に引きずられてカリョナを好いて集まってくる精霊が力を振るい、それを制御しきれすにカリョナの周りでよ時折恐ろしいことが起こるせいでもある。どちらもカリョナにはどうしようもない理由で、どう解決していいのか今の彼女にはわからなかった。
 姿かたちが似ているせいもあり、カリョナはシルビアに妙な親近感を抱いた。
 差し出された手にそっと自分の手を滑り込ませて二階へついていった。

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