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岐路 1   




 街の中心を貫く大通りは港から山までまっすぐに伸びている。港から坂を見上げると、その頂点にラピスで一番大きな建造物がある。皇帝の居住地であり、政治の中心地であるクリエーナ宮城だ。
 その東の一角に宮付きの術使いのための塔があり、その一室に変わり者で人嫌いの皇女が住む部屋がある。他の要人の部屋であれば入り口に侍女と衛兵が控えていて来客を厳しく管理しているものだが、この部屋はまるで侍女達の部屋のように誰も控えておらず、開放的だった。
「邪魔するよ」
 入室する旨を告げて、カルビエは部屋の中に足を踏み入れた。入り口に下げられた目隠しの布に下げられた鈴が揺れて涼しい音を立てる。暑い気候の土地であるから、風通しを一番に考えて作られた建物は扉は日中は扉を開け放したままにすることが前提で建てられている。
 今は一年の中で一番気候が穏やかな時期である。そよそよと風が吹きぬけ、眠気を誘う居心地のよい午後の陽だまりの中、床に座り込んで手仕事をしていたシルビアは、刺繍の枠を机に置くと慌てたように、椅子に座りなおした。
「床に座ったままでかまわないよ。シルビアは東式の家で育ったんだろう?」
「はい、申し訳ありません。椅子に座っているとあまり落ち着かなくて」
 カルビエが向かいの椅子に座ると、シルビアは刺しかけの刺繍をまとめて机の端に寄せ、立ち上がった。クリエーナの伝統的な図案を刺した刺繍は、大きな作品であるにも関わらずもう大方できあがっていた。色とりどりの幾何学模様が組み合わさって、まるでタイル細工のように見える。
「シルビア、カリョナの身代わりをさせてすまないね。くるくると良く働く君が、部屋にずっとこもっているのは辛いのではないかい?」
 花祭りの夜の喧騒にまぎれて皇女が家出をしたのは十日前の事。残された手紙から、皇女が姿を消したことについて事件性はないとその日のうちに判断されたが、今後、そのようなトラブルに巻き込まれないとも限らない。そのために、彼女の出奔は隠された。
「もとより、そうした目的で宮に引き取っていただいているのですもの、文句など申しませんわ」
 社交的な笑みを浮かべたシルビアだったが、カルビエが一瞬見せた辛そうな表情に口を閉じた。皇子はこのような点においてどうにも優しすぎる。別に責めるつもりでも、自虐的な気持ちで言ったわけでもないのだが、どうにも過去が重すぎるのだ。差し出がましいと思いつつも、上に立つものとしてこれぐらい割り切れなくて大丈夫だろうか、とこちらが心配になるほどである。
 皇女と同じ髪と瞳の色に良く似た顔立ち。そのおかげで皇女と出会い、母を亡くし、皇宮に引き取られた。それらはすべて恨みや憎しみという感情を知らない幼い時分のできごとであり、その後の温かく恵まれた生活を考えるとどうして今更責められるだろう。
「勉強をする時間や、趣味の時間を取れるのは楽しいですけれど、まったく退屈していないといえば嘘になります」
 動かないので体がなまって仕方がありません。などと軽口を言って、伸びをしたり、肩を動かして見せると、カルビエの表情はぎこちなく元に戻った。元々皇女は公式の場に出ることを嫌っているから、シルビアがしていることと言えば、この部屋で過ごし、生活の痕跡を残すことぐらいだった。
「本宮ではなく術使いの塔に住んで、公式の場にはめったに姿を見せない変わり者の皇女でも、理由も無く姿を消すというのは色々と不都合があるものだから。明確な期限は約束できないけど、もう少ししたら加羅に留学したということにするから、それまで我慢してくれないか。すまない」
 シルビアは驚いて目を見開いた。クリエーナは他国との国交を断って久しい。それでも例外はある。国と国とのつながりの上では、サザローズがそれにあたるし、ごく限られた者のみではあるが、術使いが加羅と交流を持つことを許されている。加羅は術使いが多く、研究などが熱心に行われている。協会の本部もそこに設置されているほどで、彼らの多くは一度はここで勉強することが夢なのだと聞いたことがある。皇女としての身分を嫌い、術使いとして暮らしたがっていた彼女がそれを望むのは自然な事だ。けれど、留学したことにするということは、皇女を連れ戻すつもりがないということなのではないだろうか。探すことすらやめてしまうつもりではないか、とシルビアは不安になった。けれども、もしそれが本当であったらと答えを聞く事が怖くて尋ねる事ができなかった。
「我慢なんてとんでもございません。いつまでだってかまいませんわ。お気になさることはないのですよ。私は、今の生活を不謹慎ですけれど、少し楽しんでるのです。女の子なら誰でも、一度くらいはお姫様に憧れるものですよ」
 そういって、シルビアは仕立ての良い上等な衣類の裾をそっと撫でてみせる。もちろん最後の言葉は嘘だった。自分が仕える皇女が行方をくらませていて、どうして楽しむことができるだろう。
「本当に申し訳ないと思っている。君には迷惑をかけてばかりだね」
「そんな!」とシルビアは転がるようにしてテーブルを回り、カルビエの膝元に跪いた。
「謝らないでください。特殊な事情があるとはいえ、私は一介の侍女です。謝る必要などありません。悪いのは……悪いのは姫様ではありませんか。何もかも放棄して逃げ出すなんて無責任すぎます」
 カルビエの静かな瞳に止められて、シルビアは口をつぐんだ。
「カリョナは、自分勝手で役割を放棄したわけじゃないんだ。カリョナの希望はいろんな事情が絡んで、認められなかった。だけど、僕はそろそろ開放してやろうと思っているんだ。だから留学話を提案したんだよ。……カリョナの事情の話はもうやめよう。あんまり愉快な話じゃない」
 今までの話がなかったことにするようにカルビエは手を叩いて場の空気を変えた。
「君は、本当にカリョナのことが好きなんだね。まるで幼い妹を心配するお姉さんみたいだ。そんな君にいい話があるんだよ。実は最近、ラピスでとある術使いが評判になっているらしいんだ。宿の食堂の一角を借りて失せ物探しだとか、占いだとかをしているらしい」
 もしかして、と確信に近い予想がむくむくとシルビアの胸に沸き上がる。「最近急に評判になった術使い」とカルビエが切り出すそんな人物など、一人しか思い浮かべることができない。
「女の子は占いとか好きだろう? だけど皇宮付きの術使いはあんなのだし、お抱えの占い師も政治のことしか占わないからね、侍女たちが面白がって行くらしいんだ。シルビアも行ってみないかい?」
 脳裏に『あんなの』と評された宮付き術使いの仏頂面を思い出し、シルビアは小さく吹き出した。先ほどとは打って変わり、楽しそうなカルビエの表情にシルビアの中で予想は確信に変わってゆく。そしてその笑顔を見てシルビアは、皇女の事を好きなのは自分よりも皇子の方だろうと思わずにいられなかった。
「いなくなった姫様のことを占ってもらうのはどうでしょう。評判の術使いなら、そんな占いなんてお手の物でしょう」
「そんな意地悪言うものじゃないよ。元気な顔を見たくないの?」
「……侍女たちはそれが姫さまだとはお気づきになられないのですか」
「でも、皇女はちゃんとここにいるじゃないか。赤銅の髪はそう珍しいものではないし、こうした時に気軽に外に行けるような侍女は皇女の顔などみたことがないと思うよ」
 自分の特殊な事情を思い出してシルビアは頷いた。宮に雇われる侍女の大部分は裏方で働き、皇族どころか貴族にすら直接会わずに過ごす。たとえ何かの拍子に廊下ですれ違ったとしても、身分が低い方が顔を伏せる決まりがあって、顔を見ることはかなわない。シルビアは、今はこうして皇子とも顔を合わせ、言葉を交わし、気軽に外に行けない立場にあるが、元の身分を考えれば、要人の顔を見ることなどかなわなかったに違いない。
「ぜひ行かせてください」
 シルビアが思わず身を乗り出すとカルビエは腕を組み直した。
「――ラピス中郭にある宿の食堂で一日おきに午後の間だけしているそうだよ。それでね、僕は珍しく今日は予定がないんだ。一緒にのぞきに行かないか」
「でも、本当に行ってもよいのですか?」
「お忍びで出かけるのは“皇女”の得意技じゃないか」
「本当に殿下もご一緒に?」
「たまには皇子もやんちゃなことをしてもいいだろう?」
「賛成はいたしかねます」
 シルビアの返事も待たず、待ち合わせの場所と時刻を言いおいてカルビエは部屋を出ていった。その足取りは入ってきたときに比べると随分と軽くかった。

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