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旅立ち 2   




  10歳ほどの少年が、彼には少し大きすぎる籠を背負って裏路地を歩いている。メリエムの息子、リヴだった。商店が並ぶ大通りにつながる曲がりくねった細い路地は、明け方に地面を湿らすように少しだけ降った雨のおかげか、埃っぽさが感じられない。
 彼が少しおびえたように歩く理由を、アガットは後をつけたわずかな時間ですでに気がついていた。アガットが術を使って気配を抑えていることもあり、彼女につけられていることには気がつきもしていなかったが、リヴはきょろきょろとあたりを伺いながら母親の使いを果たすために目的地へ向かっていた。
「まったく、意地の悪い。どうしてそんなことするかな」
 アガットの他にもリヴを追跡する者がいて、彼はその追跡者に怯えているのだった。リヴを追う少年達の行動がすっかり毎日の遊びの一部になっているのが、彼らの様子を見ればよくわかる。好奇心が勝ったのと、見かねたのとで、アガットは三人組の少年達に声をかけた。
「ねえ、何してるの」
「うるさいな、静かにしろよ、おばさんには関係ないだろ」
 おばさん呼ばわりされるには、アガットはまだ若い。子供の発言に本気で腹を立てたわけではなかったが、穏便に話を聞こうと思っていたアガットの方針を変更させるには十分だった。
「さっきから見ていたんだけど、いたずらをして気を引こうとするなんて、幼稚ね」
「幼稚ぃ!?」
 今度は、三人組がいきり立つ。
「だって、あの子にかまって欲しくてちょっかい出しているんでしょう」
「オマエ、誰だ」
 アガットのニヤニヤ顔に、一番年上に見える少年が視線を鋭くする。喧嘩慣れしているのが一目でわかる板についたしぐさだった。彼が三人の兄貴分だと見当をつけて、アガットは彼に向きあった。弟分の片方、背の低い方が興味深そうにじろじろとアガットを観察する。
「わたし? わたしはアガットよ」
「あいつとどういう関係?」
「関係って言われても、まだ直接話をしたことはないのよね。世話になっている宿の……」
「ヒース、見ろよ! こいつ術使いだ!」
 話をさえぎり、アガットをじろじろと観察していた少年がアガットの手首を指差して大声を上げる。その声で全身を耳のようにして警戒して歩いていたリヴもこちらに気がついたようだった。
「ああ、腕輪が見えたの」
 袖口のあたりから、銀の腕輪がちらりと顔をのぞかせている。三人はアガットから飛びのくようにして距離を取った。兄貴分のヒースが両手を地面について何事か小さくつぶやく。
「ちょっと、こんな街中でむやみに攻撃するための術を使うなんて、何考えてるの」
「うるさい、黙れ。術使い!」
 道としての役割を得てから、毎日踏みつけられ、命を育むことを忘れてしまった地面が、たちまち獲物を狩るために息を潜めて機会を狙う獣のような、生命力にあふれた攻撃的な気配を持った。アガットは少しも慌てず、しゃがみこむとヒースと同じように地面に手をつけて彼の視線を受け止める。
「ふぅん、あんたが得意なのは土の術なのね。でも残念。わたしが得意なのは木の術なのよ。木の力は土を鎮めることができる。仕掛けるときは、理を考えなさい」
 術が発動する前に攻撃を押さえ込んでしまうと、ヒースは憎々しげに舌打ちした。
「だったら僕が相手だ」
 背の低い少年が前に出ると、アガットの周りの空気がにわかに熱くなり、服に隠れて見えない腕の火傷の痕がぴりぴりと痛むような気がした。師匠に鍛えられて克服はしたが、火を使う技はどうしても好きにはなれないままだ。
「……そうね、火を使うのは大正解。よく知っているのね。だけど力量の差を考えること。火は木が燃えるのを助けるけれど、わたしにはまだ余裕があるから、木と相性のいい水の力を借りてくることができる」
 大気の中から借りようとした水の力が、望んだ以上に集まってくるのを感じて、アガットは目を見張った。けれども、すぐにその理由に思い当たり勝負の続きに集中する。
「たくさんの水と少しの火ではどちらが有利か。そんなことは、術を知らない子供だって知ってるわね?」
 土砂降りの前のような、何もかもを飲み込んでしまいそうな濃密な水の気配を感じて、三人組は顔を引きつらせる。アガットは、ちらりと三人組の背後に視線を走らせた。
「――それで、どうするの。これ以上続けるつもり? お客さんも来た事だし早く決めた方がいいんじゃない? たぶん、君たちの知り合いだと思うのだけど」
 順番に睨み付けてやると、弟分二人は拗ねたように唇を尖らせ、ヒースは悔しそうに鼻に皺をよせた。
「どうもしない。おしまいだ」
 割って入ったのは落ち着いた青年の声だった。青年は早足に歩み寄ると、ヒースとアガットの間に割って入り、壁を作るように立ちはだかった。
「お前達、むやみに術を使うなと言っているだろう」
 楽器でも叩くようにリズム良く三人の頭を拳骨で叩くと、青年はアガットを振り返った。
「迷惑をかけてすまなかった」
 痩せた体にあまりきれいとは言えない衣服。ヒース達と青年の見た目の共通点から、この四人は家を持たない生活をしているのだとアガットは想像する。生活に余裕のない家では、魔物つきの子供が生まれても術使いのところに預けることができず、持て余して捨ててしまうことが多い。そのことは、術使い達の間で大きな問題となっている。きっと、彼らはそうして捨てられた子供達なのだろう。
「あなたは彼らの保護者?」
「まあ、そんなものだ。――あんたも、お節介はやめてくれないか。あいつがいじめられているのを見かねて手を出してくれたんだろうが、小さな花火を鼻先ではじけさせたり、足を引っ掛けてつまずかせる程度のかわいらしいいたずらばかりだ。なにも本気で傷つけようなんて思っちゃいないさ。あんたも術使いなら俺達魔物憑きがあんたらの事をどう思っているかなんて知っているだろう。お互い関わらないのがルールだ。あんたがかまわなかったら、こいつらが手を出すことなどなかったんだ」
 正規の術使いであるアガットと、彼らの間には長い年月をかけて築かれた大きな壁がある。たった数歩の距離なのに、とても遠く感じられた。アガットはこの壁をよく知っている。とても冷たくて、厚い壁は自分ではどうしようもないからこそとても嫌な物だった。
「納得できないわ。関わっちゃだめだなんて誰が決めたのよ。互いに見ない振り、知らない振りをしてきただけじゃないの。ずっとおかしいと思ってた。術使いと魔物憑きは同じもの。わたしは別に喧嘩をしようと思って声をかけたわけじゃないのよ」
 青年は鼻で笑って答えない。アガットは現実味のないきれいごとを言っている気分になって黙り込んだ。地元の者が利用するためだけに存在する裏路地は、リヴや少年達だけを受け入れて、アガットだけを迷い込んだ異質のものとして拒絶しているかのようだった。
 貧富の差や身分意識から個人的に魔物憑きを見下す者も多いが、協会が魔物憑きを問題視する理由がある。ごく一部の魔物憑き達が不完全な仕事をしたり、非合法の依頼を請けたりしてしばしば厄介ごとを引き起こすからだ。しかし、正規の術使いである印の腕輪の他に特に対策が立てられておらず、双方の溝は広がるばかりだった。
「帰るぞ」
 それだけ言うと、青年は子供達の肩を抱いてアガットに背を向け、四人は路地の奥に姿を消した。
「待ってよ!」
 アガットが叫んでも、誰一人振り返りはしなかった。四人が行ってしまうと、パタパタと小さな足音を立ててリヴが駆け寄ってきた。
「姉ちゃん、すげぇな!」
 見上げてくるその瞳には純粋な憧れがあり、にこにこと笑う表情の中には先ほどまでのおどおどとした様子はもう見られなかった。見知らぬ場所に迷い込んだような気持ちになっていたアガットは、強ばった口の端が少し緩むのを感じた。
「さっきは加勢をありがとう」
 アガットが礼を言うと、リヴはきょとんと首をかしげた。
「何の話?」
「意識してして加勢してくれたわけじゃなかったのね」
 先ほど水の力を借りようとした時に力を貸してくれたのはリヴに憑いている精霊だった。
 アガットは手のひらについた土を払って、スカートのしわを伸ばし、衣服を整えた。
「あの子達にいつもいじめられてるの? やり返そうと思わないわけ?」
「歯向かえば、倍返しだもん……。それに、どうせ大怪我をするようなことはされないしさ。たぶん、おいらに家族がいるから羨ましくってちょっかいかけてくるんだよ」
 リヴの分析には一理あると感心したアガットをよそ目に、そんなことよりさ、とリヴは話を変えた。
「さっきのってどういう意味? ほら、ヒース達とやり合ってた時に言ってた。ことわりがなんとかって」
 おつかいの途中であることをすっかり忘れてしまっている様子のリヴを本来向かうはずだった方向へ促し、その横を歩きながらアガットは口を開いた。
「リヴは、自分のちからについてどのくらいのことを知っているの」
「自分のちからって魔物のこと? 母さんはお前が分別のないことを言うと、魔物が暴れるのよって言うけど」
 アガットは、話の続きを待ったがそれ以上の話は出てくる様子はない。リヴよりほんの少し年上のヒースも、同じ年ぐらいの少年達も、精霊達の相性について当たり前のように知っていた。それどころか、細やかな調整が必要となる小さないたずらを難なく行えている。
「お使いのとき、買ってきた野菜に何かしたりしないの?」
「八百屋さんから形の悪い野菜を安く分けてもらうこと? 母さんが行くと安く売ってもらえないんだよ。だからおいらの仕事なんだ。あ、八百屋はこの角曲がってすぐなんだ。知らない人がいると嫌がるから、ちょっと待ってて!」
 リヴは返事も聞かずに駆け出すと、八百屋の裏口に姿を消した。リヴと先ほどの少年達に大きな年齢差はない。それにも関わらず魔物憑き達の力の制御能力に大きな差があることにアガットは驚いていた。何が違うのだろうと考えていたアガットのところに、息を弾ませたリヴが戻ってきた。
「お待たせ」
 彼の抱える籠の中には、色や形が悪かったり、半分痛んでいたり、少し元気のない野菜たちがたくさん入っている。
「後は、この野菜を持って帰るだけ?」
「そうだよ」
 このラピスは商業の街で畑はほとんどない。日持ちがするため、遠くから運んでくることのできる根菜類は別として、採れたてのみずみずしい青菜は手に入りにくく高値である。メリエムの宿のような安宿では、そのような材料を扱うことは難しい。予想していたとおり、籠の中身には宿で出されたようなみずみずしい青菜はない。今までの様子から見てリヴが自分からちからを使える様子はないから、おそらくリヴの意思とは無関係に、彼に憑いた精霊がちからをふるうのだろう。
「お疲れ様。さあ、一緒に宿まで帰りましょう」
 取っ手の片側を手伝おうとするとリヴは無言で首を振って自分で背負って歩き出した。隣を歩きながらアガットは、野菜が変化する様を見逃すまいと籠から視線を放さなかったが、厨房に入るまで野菜が変化する様子は見られなかった。

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