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旅立ち 1   





「客商売なのに魔物憑きを育てるなんて、たいしたものね」


 まるで独り言のような声だった。
 けれども、彼女とメリエムしかいない静まり返った広間にはその声は大きく響き、飲み散らかされた机を片付けていたメリエムの手は凍りついたように止まった。終業時間であることを告げたことが気に障ったのだろうか。声をかけてきたのは夕べから宿に泊まっているアガットという客だ。
 返事もできずメリエムは顔を強ばらせた。食事が終わってから、何をするでもなくいつまでも席に残っていた理由はこれだったのだ。
「ごめんなさい。あの、怖がらせるつもりなんてなかったのだけど」
 緑の瞳をぱちくりと瞬かせて、アガットは慌てたように言葉を付け加えた。他者に聞かれたくない話だろうからと気を利かせて宿の女主人と二人きりになれるよう最後まで食堂に残ったのだ。
 メリエムは首をかしげた。てっきり、黙っていてやるから金を出せと脅されるか、はたまた客商売なのにそんな危険なものを置いておくなんてと中傷されるかと身構えていたのだが、相手は言葉通りそのようなつもりはなさそうだった。まっすぐにメリエムに向けられる瞳に悪意は感じられず、それどころか彼女は自分の言葉が思いがけず凶器になってしまったことに戸惑っているようだった。
「話をする時はもっと言葉を選べと師匠からいつも注意されていたのに」
 その師匠が目の前にいて、今まさに叱られているかのようにしゅんとうなだれるアガットが急に幼く見えて、メリエムは自分で意識しないうちに微笑んでしまった。
「朝食に出してもらったサラダがとてもおいしかったの。さっき出してくれたスープの野菜も。このご時勢にあんなに新鮮な野菜を提供できるなんて、きっとその子のおかげなんだわ。それにさっきまで歌ってた芸人達が、この宿で歌うとなんだか喉の調子がいいんだって褒めていたの。どうしたら術使いに預けずに、力を暴走させないように魔物憑きを育てることができるのか、聞きたかったのよ」
 矢継ぎ早の言い訳にメリエムはすっかりと警戒心を緩めた。客商売を始めて長い。相手の性質を、身にまとう雰囲気や行動から読み取る能力には長けている方だと自負している。どう見ても、彼女から悪意は感じられない。抱えている秘密に少々神経質になりすぎていたようだ。
「お褒めに預かって光栄だね。野菜はリヴに買ってこさせるとどんなに萎れたくず野菜でもみずみずしくなるのさ。リヴってのはうちの息子の名前だけどね。商売の秘密なんだ、そのからくりはどうか言いふらさないでおくれよ」
 食堂の入口にある看板を営業時間が終了したことを告げるものに差し替え、メリエムは小太りの体を揺らしてアガットの机のところまで戻ってきた。
「あの子の力が暴走することなんてよくあることだよ。ただ、運よく人様に迷惑がかかりにくい程度ですんでいるだけでね。雨漏りや水漏れがあるなんて、こんな場末の宿ではよくあることだと思わないかい?」
 冗談でも言うように笑って見せるメリエムの口調に彼女の大らかさと息子に対する愛情が感じられ、アガットは子供がどのように育てられてきたのか、その片鱗を見ることができたような気がした。
「だから、そんなお教えできるようなご大層な事はしてないよ」
 手早くアガットの机を拭いてしまうと、台ふきんをたたみ直しメリエムはエプロンで手を拭いた。
「ところでお客さんは、なんだって一人旅しようと思ったんだい」
 今も昔も若い女性の一人旅は珍しいものだし、彼女の旅支度はあまり慣れているようには見えなかった。近頃はこの街も治安が悪くなってきている。女性が一人で泊まっても安全な護り屋宿にも泊まらないなんて、一体どういう事情だろう。宿泊の手続きをした時に感じた好奇心が再び顔をのぞかせる。話を変えたかった事もあって、今度は隣の机を台ふきんで拭きながら今度はメリエムが尋ねる。しかし答えはなかなか戻って来なかった。メリエムが手を止めて顔を上げると、ようやくアガットは口を開いた。
「街角で、安価で依頼を請ける術使いになりたいの。ようやく、独り立ちできるようになったから、旅に出るのよ」
「お客さん、術使いだったのかい」
 メリエムの視線がちらりとアガットの左手首に向けられる。アガットはその視線の意味をすぐに察して、袖をめくって手首を見せた。手首にぴたりと添った継ぎ目のない銀の腕輪がはまっている。これを持つ者が術使いであることを証明しその技量を保証するために術使いの協会が定めた印である。メリエムは顔を近づけてまじまじと覗き込んだ。
「やっぱり、術使いってのはいいところのお嬢さんなんだね。お客さんは、世間慣れしてないのがまるわかりだったよ。お気楽に商売しようったって、利用されるのが落ちさ。考え直して、家に帰った方がよくないかい」
「世間知らずってのは本当だけど、簡単に騙されたりはしないわよ。腹の中で何を考えているのかわからない人たちの間で育ったんだもの。それに、師匠以上に手ごわい相手はそういないと思うわ」
 アガットはにやりと笑うと、少し背筋を伸ばした。
「そこで交渉したいのだけど。あまり困ってはいないように冗談めかして言ってはいたけれど、やっぱり雨漏りなんかが頻繁に起こったりするのは客商売の都合上あまり望ましくはないわ。どうかしら、商売をするには道端でもいいんだけど、やっぱり屋根があるところのほうがいいのよね。ここの隅っこの机と椅子を借りる借り賃代わりに、息子さんに教えるというのはどうかしら? もちろん、正式な弟子ではないからコツを教える程度になるけれど。」
 メリエムは腕を組み悩む素振りを見せながら、机の前を忙しく一往復した。けれども少しも迷っていなかった。交渉の仕方は下手と言って良いほどだが、取引の内容は悪くない。先ほど見た腕輪が保障する彼女の技量は十分であるし、場所の対価としては、妥当というより、彼女の方が払いすぎていると言っても良いほどである。
「おもしろい娘だ。――そうだね、うちはお金がなくて術使いに弟子入りさせてやれなかった。リヴがあんたの事を気に入るようだったら交渉成立ってことでいいかい?」
「ええ、もちろん」
「明日の朝にでも、紹介しようかね」
「自分で会いに行くわ。できれば、わたしの申し出のことは内緒にしておいて欲しいのだけど」
 メリエムは不思議そうに首をかしげ、「まあ、方法は任せるよ」と頷いた。翌日の彼の予定を教えられてから、アガットは満足げに笑うと椅子を引いて立ち上がった。
「それじゃ、おやすみなさい。夕食もとてもおいしかったわ。メリエムさんは料理上手ね。遅くまで残って片付けの邪魔をしてごめんなさい」
 去り際に「おやすみなさい」ともう一度言い、幼い子供や親しい間柄でよく使うおやすみなさいのしぐさをメリエムに向けると、アガットは客室につながる階段を軽やかに駆け上がっていった。


  ☆  ☆  ☆


 その晩もアガットは暗闇の中で目を覚ました。涙のにじむ目尻を袖口で乱暴に拭い、喉の奥に絡まった粘っこいものを飲み下す。十年間、毎夜繰り返してきた事だった。それから逃れるために逃げ出してきたのに、逃げ出した夜から夢はいつも以上に鮮やかになった。
 よろよろと窓辺に寄って窓を開くと、ひやりと肌寒い空気が部屋に流れ込んだ。夢の中で火傷を負った腕に、その冷たさが気持ちが良かった。十年前に負ったその火傷は、目を凝らしてやっと痕がわかる程度で、とうに完治している。けれどもその傷から痛みが消える日など一度だってありはしなかった。それは同時に、この身を縛る鎖を思い出させるのだった。
 窓枠に額を預けて、アガットは深く息をついた。進むべき正しい道を記した地図と闇を照らす明かりが欲しかった。今、アガットに見つけられる道は、他者のそれを邪魔するものばかりであるように感じられた。

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