神様のいる町


清明


 梅の木ばかりの境内に、梅にまぎれて一本桜の木がある。
 ぽかぽか陽気の春の日、せっかちな梅の花が散り遅咲きの桜はようやく咲いた。
 八重の美しい花びらが、まるで華やかな髪飾りのようにこげ茶のつやつやとした美しい幹を飾る。
 春になれば新芽が膨らみ、秋には紅葉して散っていく。季節が巡るたびに他の木は姿を変えていくというのに、神社のご神木でもある古い杉は一体いつ世代交代をするのかいつも同じ姿で、まっすぐに背筋を伸ばして立っていた。地面に張り出した根は、その木が過ごしてきた年月を語るように太く絡んでいる。それを枕に眠るカミさまを見つけて私は思わず足を止めた。
「……なんだか久しぶりね。懐かしい」
 最近では祭壇の前だったり、部屋の畳の上だったりと室内に上がりこんでいるが、まだ私が小さかったころは、カミさまはよくこの場所で木の根を枕にこうして寝転んで休んでいたのだ。そして、いつも私にお酒を取りに走らせた。
「納戸の奥に酒が入っておるじゃろう? ひと走り行って取って来い……だったか」
 頭の中で思い出したセリフが、現実の声と重なる。木漏れ日の奥でカミさまがまぶしげに片目を細く開いた。
「良い天気じゃからな。やはり、外が落ち着くのう」
 ん、と軽く伸びをして、カミさまは身を起こした。
 カミさまと私が始めて顔をあわせたのは、私が6つの年のことだ。
「家出をしてきたんじゃったな。つい先日のように覚えておるぞ」
 片腕でひさしを作り逆光の位置にいる私を見上げ、カミさまは意地の悪いにやにや笑いを口元に浮かべた。そりゃあ、長生きのカミさまからすると、つい先日の話だろう。それでも私にとってはもう10年も昔の話だ。
 けれども、その日のことはよく覚えている。
 弥生町の子供達のほとんどは、重陽の秋祭りに神楽を舞う。その舞いは母が教えていて、自分も当然一緒に習い覚えなくてはならなかった。原因までは良く覚えていないのだが、確かとても理不尽な事で母に叱られたのだったと思う。
 泣きながらその場を離れ、他の子供達がいるために追って来れない母を困らせてやろうと入ってはいけないと決められている裏山に入り込んだのだ。


  ※  ※  ※


 山に入ってすぐに後悔した。晴れているのになんだか薄暗く、カラスの鳴き声がぎゃあぎゃあと気味悪く響いている。足元はなんだかねちょりとしていて、一歩踏み出すたびに足が沈んで気持ちが悪かった。
 なんで、私が怒られなきゃいけないのだろう。悪いのは慶太の方なのに。怒りをそのまま歩みに変えて、ずかずかと木々の間を行く。
 怒りはどうにも収まらず、木の幹を怒りに任せて蹴りつけた。その足袋の先が、土で汚れていた。それを見てようやく山に入ったことを後悔した。回りを見渡すと、どこもかしこも木ばかりで自分がどこから来たのかわからなくなりそうだ。
 本当はわかっていた。師匠という立場の母は、ほかの子供たちの手前人一倍娘に厳しくしなくてはならなかったのだ。それでも今日のはひどかった。まったくの濡れ衣にもかかわらず、弁解も聞かずにやる気がないなら出て行けと言ったのだ。
 子供らしくない重たいため息をはいて、近くにあった倒木に腰をかけた。この、汚れた足袋をみれば母はまた怒るのだろうか。考えると気が滅入った。母は決して怒鳴らない。静かで、厳しい声で叱るのだ。それがどれほど恐ろしいかは実際にされた人にしかわからないに違いない。
「誰かと思えば、稲田のところの。――こんなところで何をしている?」
 突然どこからか男の人の声が降ってきて、驚いて息を飲み込んだ。何をしている、と続いた声は、どこかめんどくさそうで怖い感じはしなかった。さっきまで自分を脅すように鳴いていたカラスやけものが、ぴたりと騒ぐのをやめた。
 首をめぐらせて、声の持ち主を探す。けれども、周りは木ばかりで、誰の姿も見つからない。
「だ、誰?」
「ここには入らないように言われておるじゃろう。母親に怒られるぞ。あれは、なかなか口うるさいからのう」
「お母さんなんて知らない!」
 意地が、再び身のうちでむくむくと起き上がるのを感じた。怒りたければ怒ればいい。どうせ、私は出来の悪い娘なのだから。
 私が声を荒げたのを聞いて、男の人の声は喉の奥で笑った。
「気が強いのぅ、血のつながりはごまかせんな。なあ、小さいの。巫女に何ぞ叱られたのか?」
 結局は誰かに心のうちを聞いて欲しかったのだろう。舞の練習の場で起こった一連の出来事を口にした。最初はとつとつと語っていたのが、要所で声が相槌をうってくれるせいか夢中で語り、そのうちに普段から何かと口うるさい母の愚痴に変った。
「あーあ、私がもっと舞が上手だったら、お母さんはもっと優しかったのかな……」
「どれ、少し舞ってみるがいい」
「音もないのに?」
 その上にこんな足場の悪いところで、どうやって舞えというのだろう。
「耳を澄ませてみよ」
 さくり、さくりと足音を立てて、男の人がやってきた。一目で声の持ち主だと確信することができた。
「まずは風の音」
 男の人は、私の横に腰掛けると風を現すように、手のひらを右から左にすっと動かす。風自体の音はどんなものかはわからなかったが、木の葉が風に揺れる音が聞こえた。木の声、鳥の声、土の音、と男の人が身振りと共に示すと次から次に音が聞こえるようになった。
 次第に、ばらばらだった音がより集まって神楽に変わっていく。これなら舞うことができると確信する前に、体が動き出す。これほど体が軽く動いたことはなかった。
 夢中で体を動かしていくと、だんだんこの山のすべてが体に染み込んでくるようなおかしな気分になった。
「ほう、うまいものだな」
 拍手の音にはっと我に返る。心臓がドコドコとなって、すっかり息が上がっていた。こんなに気持ちよく舞えたのは初めてだ。
「あー、気持ちがよかった!! こんなに楽しく舞えたの、はじめて。ありがとう」
 さっきまで座っていた倒木の男の横に再び腰掛ける。知らない人だというのに、なぜだか父親と一緒にいるときのような安心感がある。
「面白い子供だな。わしに向かってそんな口の聞き方をするのはおまえぐらいだぞ」
「ところで、あなたは誰なの? なんでこんなところにいるの?」
 不躾な私の質問に、男の人は唇の端をゆがめてにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「誰だかはそのうちわかるだろうよ。ここにいるのは、そうだなぁ……」
 腕を組んで、しばらく考え込むように小さな唸り声を上げてそれから男の人はようやく口を開いた。にやにや顔を隠しもせずに、笑い混じりの声で。
「弥生町の愛と平和を……守るため、かのう?」
 クラスの男の子たちが好きなヒーロー戦隊の決めぜりふにありそうだ。だけど男の人とヒーローは全然違う。その差が面白くて、私は母親にしかられて落ち込んでいたことなどすっかり忘れて笑い声を上げていた。帰り道は男の人が神社の近くまで送ってくれた。舞を習いに来ていた子供たちはもう帰っていて、お母さんは私を見ると一言「心配したのよ」とつぶやいた。


 男の人の正体に気がついたのは次の日のこと。重陽の節句の舞の一つにその答えがあった。
 山で会った男の人と再会したのは、祭りが終わってずいぶんと経ってからだった。神社の裏手で舞の復習をしていた私のところへ、その見物に来たのだ。その正体を言い当てた私の頭を、カミさまは黙ったままくしゃりと撫でた。



  ※  ※  ※



「あの時、聞きそびれたことを聞いてもいい?」
 なんじゃ、とカミさまは上体を起こした。
「いたずらもののキツネを、この村を守る神様に祭り上げた巫女姫との契約が切れてしまえば、カミさまはここを去ってしまうの?」
 巫女姫との契約の内容を私は知らない。けれども永遠に続く契約などあるはずもなく、カミさまにも寿命というものがあるに違いない。それに、自由奔放に生きてきたに違いないカミさまがいつまでも契約に縛られているとはどうしても思えなかった。
「そうだな」
 果てのないような、高い空を見上げたままカミさまは唇の端をかすかに上げた。
「ここを気に入っておるからな。まだ当分はおるつもりじゃ。……何しろ」
 かすかに上がった唇の端はそのままつりあがり、にやりとしたいつもの意地の悪いような、人をからかうような笑みが顔中に広がった。
 私はカミさまが口を開くよりも先に、カミさまを真似して意地の悪いにやにや笑いを浮かべた。
「何しろ、弥生町の愛と平和を守らなきゃいけないんだもんね?」
「わしに向かってそんな口の聞き方をするのはおまえぐらいじゃぞ」
 まるで仲の良い友人同士のように同時に破顔する。しばらく笑いあった後に、ふとまじめな顔になってカミさまは起き上がり座りなおした。
「……久しぶりに、ひとさし舞ってくれんか」
「はい」

 ――あれが風の音、あれが鳥の声、木々の芽吹く音、木の中を水がめぐる音。

 聞こえない音に耳を凝らしていけば、楽の音は聞こえてくる。神楽がなくとも、もう戸惑わずに舞うことができる。舞を心のそこから楽しいと思うことができるようになったのはカミさまのおかげだ。

 舞の途中でふと見上げると、いつも姿が変わらないと思っていた杉の葉のなかに、若々しい緑色が混じっている。変わらないように見えても季節は誰のところにも平等にめぐってくるのだろう。


 拍手の音に動きを止めて、私はカミさまの横に腰掛けた。



− 完 −     


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