神様のいる町


晴れた日の雨


 タタタタタタタ……
 毎朝決まって鳴らす軽やかな足音は耳に気持ちがいい。なんだかすがすがしい気分になるからだ。
「巫女よ、水は冷たくないのか?」
 尋ねる声に間髪を入れずに答える。
「冷たいに決まってるじゃない」
 朱袴の裾をさばいて私はあまり広くはない拝殿の端から端までを四つ這いで駆け抜けた。壁に行き当たると雑巾の幅だけ横にずれて戻ってくる。板張りの床は冷たい。裸足の足も雑巾に添えられた手も冷えきって悲しいほどに赤い。開けはなされた拝殿には遠慮なしに冷たい風が吹き込んだ。暦の上では春とはいえ、弥生町の二月はまだまだ寒い。幾度か往復して私は立ち上がる。廊下に置いたバケツに雑巾を浸したが、慌てて手を出して私は「ちょっと!」と叫んだ。
「なんてことしてくれるのよ。これ、お湯じゃない!」
「まったく、巫女よ。そなたは素直に礼も言えんのか?」
「どうしてお礼なんか言えるもんですか。馬鹿じゃないの? お湯のほうが手が荒れるのよ。――いっつも思うけど無知すぎ。常識知らなさすぎ」
 私は、ふんと鼻で笑った。
「いくらカミさまとはいえ……所詮はキツネよね」
「――巫女よ、そなたにはカミを敬う気持ちがないのではないか? わしは三千と……えーと……」
 忘れたとつぶやいて声は続ける。
「とにかく三千年以上も生きた由緒正しき弥生山の主ぞ。そこらのキツネと一緒にするでない」
 私は拝殿のさらにの奥にある、本殿の奥に視線を向けた。そこには祭壇が設けられている。あぐらをかいたカミさまは不謹慎なことに祭壇にもたれていた。
「はいはいはいはい」
「お前さんは愛想がないのぉ」
「放っといてください。それより、私になけなしの神通力使うぐらいなら弥生町の愛と平和を守るために使いなさいよ」
 いいかげんに返事をしてカミさまは着物の襟を緩めてごろりと横になった。私はあっという間に水に戻ったバケツで雑巾をすすぐと、また床拭きに戻る。
 タタタ…軽やかな足音が神社中に響いた。
「おお、そうじゃったそうじゃった」
 掃除を終えるのを狙ったようにカミさまは口を開いた。
「巫女よ。そういえば今日は眷族の婚儀があってな……」
「――そういうことは早く言ってよね、もうっ」


 弥生町には神社の巫女がお豆腐と油揚げを買い占めると天気雨が降るというジンクスがある。
「あれ、巫女さま。今日は神様が降りてきなさったのかね」
「ええ」
 私はにっこりと笑って全部くださいなと豆腐や油揚げを指差した。
 本当は毎日本殿でごろごろしているのだとか、そういうことは町人の信仰心を守るために黙っておく。
「じゃあ、かさばるものは全部神社に届けてあげようね」
 ありがとうと丁寧に頭をさげると先に湯葉やなんかを包んでもらって私は走って神社に戻った。とにかく時間がないのだ。神社の大きさには不釣り合いな大きな、古い造りの台所に駆け込んで大きな鍋に湯をわかす。
「ちょっとカミさま……カーミーさーまー、少しは手伝いなさい」
「巫女よ、そなたはカミ使いが荒いのぉ」
 ぼやく声と共に何もない空間に起きぬけのカミさまが姿を表す。
「前と同じ、豆腐と油揚げの会席でいいわね? ……ええと、三十膳?」
 カミさまに割烹着と三角布を投げてよこし沸騰した鍋に鰹節を一抱え突っ込んだ。もう一度沸騰させてすぐに火を切る。
「これ、濾してね」
 言い捨てて次の作業に取りかかる。
 そうするうちに豆腐と油揚げが届いた。


「つっかれたー」
 午後も終わりに近い頃、私は大の字になって寝転んだ。とりあえずの役目は終わった。今頃本殿はヒトならぬもの達が集まって、どんちゃん騒ぎの真っ最中だろう。ヒトである私は呼ばれぬ限りはその宴には加われない。そもそも、神社の本殿というのは宮司でさえ足を踏み入れることのままならぬ建物だ。「まあまあ、わしが招いておるのだから良いではないか」の一言で、私はよく本殿に足を踏み入れているのだが。

 祝儀が始まる頃にカミさまがはらはらと降らせた縁起物の天気雨は木々に水滴の宝石を残して上がってしまった。開けはなしたままの縁側からきらきら輝くそれを見つめて澄子はこんなに美しいのならば雨上がりの結婚式もいいなと思う。
 心地よい疲労感に身を任せてだらりとくつろいでいるとふいに枕元に少年が現れた。
「あら、正宗」
 正宗とは弥生山の主が『使い』としている少年だ。少年はちょこんとしゃがみ込んで私の顔を覗きこんだ。
「久しぶりね」
「巫女よ」
 しかし少年の口から聞こえるのは弥生山のカミの声。正宗は自身の人格を持ちながら時に主と誰かを繋ぐ電話のような役目をする。しかし彼の主は今頃は祝儀の真っ最中のはずだ。
「なに」
 あれだけやったのだから文句は言わせないとばかりに私はつっけどんに答える。
「衣を整えてお堂に来い」
 声は正宗の表情に反して上機嫌だ。お酒が入っているのがわかる。
「なぜ?」
「そなたの舞が見事だと話したらぜひ見たいと言うのでな。故に一さし所望する――そう不快そうな顔をするでない」
 正宗の目はそのまま弥生山のカミさまの目。正宗の見たものはそのままカミさまに届く。
「ちょっと!」
 一方的過ぎないかと文句を言おうとした私の口に正宗は人差し指を押しつけて言葉を封じる。
「あるじさまの強引さはわかりますが、今日ばかりは許してあげてください。今日の主役はあるじさまに深い縁のある御方」
 正宗にもはやカミの気配はなく彼は彼自身で言葉を紡ぐ。少年の体に似合わないその声は低く、耳に心地いい。
「悪しき言の葉には悪しき気が寄ります。お控えください」
 ゆっくりと腕を挙げて、カミさまに教えられた言霊を封じる印を小さく切ると正宗は安心したように手を放した。
「そんなご大層な方の祝いだったらどうして先に言わないのかしらね。急だったから大したおかまいもできなかったわ」
 少年は返答に困ったように小首をかしげた。彼の主がいつも急なのは互いに承知している。
「ねえ、正宗。神楽舞の衣装でいいのかしら」
「かまわないと思います。方々もきっと神楽舞をご所望でしょうから」


 選んだのは草木の芽吹きを寿ぎ秋の豊作を祈る春の舞
 楽の音のかわりに手に持った鈴を要所でしゃん、しゃんと鳴らす。たん、と床を踏み鳴らせばその音は舞を引き締める。
 どこから取り出したのか客の一人が横笛で舞に音を入れた。すると別の誰かがきれいな言葉や縁起の良い言葉を並べて唄をつけた。それが大層な美声で舞いながら歌声に聞きほれた。
 誰からともなく手や床を鳴らして調子を取りはじめる。
 歌い手が春の桜の美しさと花嫁の美しさをかけた詞を唄に乗せるとどこからかはらはらと桜の花吹雪が舞い込んできた。弥生町は梅と、桜の名所であるがどちらもまだ芽は固く開花までは程遠い。
 共に舞い踊る花びらは弥生山の主の粋な演出だ。証拠に袖や床に触れると煙のように消えていく。



「ちょっと、さぼらないでよ」
 朝も早い時間から台所には私をはさんで大小の影。大きな影は少しでも手があけばこめかみに指を当てて顔をしかめている。反対に小さな影は文句も言わず黙々と皿を洗い続けている。
「正宗は偉いわね。それが終わったら休憩してもいいわよ」
「かまいません。残りも少しなのでやってしまいます」
 もう一度えらいわねぇとつぶやいて私は隣の大きな影を意味ありげに見上げた。
 昨夜の祝宴は大盛況のうちに終わり幸せそうな新しい夫婦やそれを祝うモノたちは丑三つ時に、にこやかに帰っていった。
「おい、巫女。終わったぞ」
「はい、よくできました。朝食にしましょ」
 言い終わらぬうちに大きいのと小さいのは居間のこたつに飛んでいく。私は昨夜の片付けと平行して作っていた朝食を土鍋ごと抱えて運んだ。
「粥か」
「そうよ、どうせ昨夜は無茶なお酒の飲み方をしたんでしょ?」
 カミに宿酔いがあるのかは知らないが朝からこめかみを押さえているところを見ればきっとそうなのだろう。
 いただきますと唱えてお粥に箸をつけた。
「……私もお嫁に行くときはカミさまに取り持ってもらおうかなぁ。私はキツネじゃないけど、天気雨を降らせてね。晴れた日の雨はきれいで、なんだか幸せになれそうなんだもの」
「そなたは好きな男子でもおるのか?」
 神社の跡取りである私はもしも結婚するのならば嫁に行くのではなくて、おそらく婿を取ることになるだろう。冗談半分でつぶやいた私の言葉にカミさまはすかさず反応した。その顔はまるで娘を嫁にやりたくない父親のようだ。まさかね、とその顔を見上げて私は苦笑した。
「嫁にはやらんぞ」
「でしょうね。……婿をとるわよ」
「それも許さん」
 カミさまはなんだか妙に不機嫌で、そのまましばし睨みあう。
「いいわ」
 私は長身の弥生山の主を見上げてふふん、と笑う。
「私が婿もらわなかったら跡継ぎがいないわねそしたらすーぐーに、神社は荒れるのよ」
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
 一人黙々と食事を続けていた正宗が箸を置いて席をたった。
 我に返ればほとんど箸をつけていない冷えきったお粥が二人分。暗黙のうちに休戦協定を結んで二人は食事を再開した。
 しかしどう考えても冷えたお粥はおいしくない。しかし箸の進まない私とは反対にカミさまはおいしそうに粥を頬張っている。
「卑怯者っ」
 よく見ればカミさまの椀にだけ温かそうにほんのり湯気が上がっている。
「こんなしょうもないことに神通力を使うんじゃないっ」
「なんだ、巫女もやってほしいのか? まったく、素直じゃないのぉ」
「〜〜やってほしくないわけじゃないけど……こんなことに力を使うくらいなら弥生町の愛と平和を守るためにつかいなさいっ」


 今日も弥生神社は朝からにぎやかだ。

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