神様のいる町


秋さり姫


 その美しい女の人は、着物の裾が濡れるのも構わない様子で川に足を浸している。その彼女が纏う着物は少し変わっていて、まるで天女の衣装のようだ。
彼女が生身のヒトではないのは知っている。時折透けるその体は、夕暮れの川辺にとてもよく似合った。彼女は祈るように両手を組んでいて、見かけるたびに川の深い方へ近づいているように見えた。


「ねぇ、今日もいたのよ。どうしたらいいと思う?」
「放っておけと言うたではないか」
 カミさまの返事に私は違うのよ、と眉をしかめた。
 この、祭壇の前で無作法にお酒を飲んだくれている男は弥生神社がまつる鎮守さま、いわゆる神様ってやつだ。
「彼女、目の前で倒れたの。私は触れないし、なんとかしてあげなさいよ」
 今日も夕暮れ時に彼女を見掛けた。彼女は、悲しそうな目で私を見つめ、しぶきを上げて水の中に倒れ落ちたのだ。おもわず駆け寄った私の手にふれるのはさらさらと流れゆく水だけ。私の手は、彼女の体をすり抜けた。触れることはできなかった。
「助けてあげてよ。弥生町の愛と平和を守るためにカミさまがいるんでしょ。彼女、悪い人じゃないわ。幽霊も例外じゃないと思うけど?」
 杯を板じきの床に乱暴に置いて、カミさまはがしがしとめんどくさそうに頭をかいた。なぜそんなことをしにゃいかんのだとかなんとかぶつぶつと呟いて起き上がるとカミさまは大きな声をあげた。
「おい、正宗。川先の小さいのと行って拾ってこい」
 子供が二人、どこからともなく現れていってきますと神社を飛び出した。お察しだとは思うけど、彼らもヒトではない。
「拾ってこいって言い草はないんじゃないの」
「うるさいのぉ。巫女の望み通りにしたではないか」
 なんだか、カミさまの様子がいつもと違うような気がする。あの、いっそ感心してしまいそうなふてぶてしさが半分くらいに減っているように思う。
「カミさま、もしかして知り合いだったりして?」
「――違う」
 否定の言葉までの一瞬の間が、妙に心に引っかかった。


 彼女は、正宗に支えられながらだったけれど自分の足で歩いてやってきた。
「澄子様、どちらにご案内すればよろしいですか?」
 一足先に駆け込んできたしずちゃんに、少し考えてお隣にある自宅に案内するように頼んで私は立ち上がる。
「さてと、カミさま。行くわよ」
「わしも行くのか?」
「当たり前よ」
 背後でカミさまが無責任だとかなんとか呟いているのはあっさり無視して、私はカミさまを引きずって自宅に戻った。彼女が待つ部屋の襖を開いて、私は立ち止まった。
 彼女はカミさまと目が合うと、ぼろぼろと泣き出したのだ。やっと会えた、やっと会えたと嗚咽交じりの声で言いながら、手で顔を覆ってしゃがみこんでしまった。
「ちょ、カミさま。なんとかしなさいよ」
 私は小声で囁いて、カミさまの袖を引っ張った。やっぱり知り合いなんじゃないの、うそつき。
 棒のように突っ立ったまま何もしようとしないカミさまを私は見上げた。もしかして彼女は昔、カミさまが好きだったのかしら。彼女はカミさまのところへ行きたかったのに、カミさまがこっぴどく振って、だから女の人は別の人と結婚させられて、悲しみのあまり死んじゃったとか……。
 カミさまは私の思考回路なんてお見通しだったらしい。呆れたようにこちらを見下ろした。
「逆じゃ」
「え、じゃあカミさまが好きだったの?」
 泣いている彼女を放ったままこんな話をしている場合じゃないんだけど。正宗としずちゃんが困ったようにこちらを見ている。
「ち、が、う」
 一文字ずつ言葉が落ちてきた。隣に立って話をしていると、いつも言葉は降ってくるのだ。……それにしても、カミさまとのこの身長差が腹が立つ。喋りにくいったらない。
 違う、か。違うとしたら、どういう意味なのだろう。彼女はカミさまに会いたくて、カミさまはどうやら彼女に会いたくなさそうで。だけど彼女がカミさまを好きなわけではないらしい。そしてカミさまも彼女を好きなわけではないらしい。でも、彼女はカミさまを一目見て、泣き崩れたんだ。
 ……どういうことだろう。これだけヒントがあるというのに、その関係はどんなに考えても浮かんでこなかった。
「秋さり姫」
 カミさまが彼女を呼んだ。彼女は涙で汚れた顔を上げた。
「秋さり姫って?」
 彼女の嗚咽だけが響く沈黙の後、答えてくれたのは正宗だった。
「秋さり姫とは、棚機つ女のことです。古い時代にあった禊の行事の一つで、巫として選ばれた乙女が、カミに捧げる布を水辺で織りながらカミが降りるのを待つ。降りたカミは、乙女の住む村の穢れをすべて持って天上にかえられます」
「昔、千年ほどまえのことだな。長く雨が降らなかった夏に、弥生にはその禊の行事が歪んで伝わった。これはその犠牲者だ」
「どういう意味?」
「雨を呼ぶために恋人のある村一番の器量よしの乙女をカミに捧げたのです。その、命ごと。その代の巫女と宮司は、あるじさまの姿を見ることはできなかった。もちろん、間違った儀式を行ってもカミは降りてくるわけもありません」
 「千年前」「乙女」そして「雨が降らない」これらの言葉が頭の中でくっついた。どこかで聞いたことがあると思えば、重陽の節句の祭りのために今、弥生町の中学生たちが練習している物語になっている神楽舞だ。大入道が村に来るはずの雨雲をすべて止めてしまった。村は当然弱りきり、それを見て心を痛めた美しい乙女が村を守る狐のカミに弥生村に雨雲を呼んでくれと懇願する。カミは化け比べをし、大入道を打ち負かして雨雲を呼ぶ。そういう物語だ。
「これ、舞のものがたりなのね?」
「そうじゃ」
「……だったら、彼女はなぜカミさまに会いたがったの? 正宗は儀式が間違ってたらカミは降りないと言った。来ないカミさまを待っていたというならばやっと会えたという理由もわかるのに。――雨は降ったんじゃないの。雨が降ったらカミが降りなくても願いは届いたと認識されるはずだわどうして彼女は、カミさまに会いたがっていたの?」
 疲れたようにカミさまは息をついた。熱気を含んだ風が開け放したままの窓からとろとろと吹き込んで部屋の空気をかき混ぜていく。
「事実は物語のままではない」
 そりゃあ物語なのだから多少の装飾はされるだろう。
「……あるじさまが雨を降らせたのはそれからずいぶん後の話なのです。秋さり姫は、あるじさまが雨を降らせたことを知りません」
 棚機つ女の役目を負った女は死した後も村を心配してこの世に戻ってきた。それなのに村には一向に雨も降らず、カミも降りては来なかった。
「だったら、その時から彼女はずっとあそこにいたの?」
 正宗とカミさまはそろって、そっくりな仕草で首を振った。
「いたとも言えるし、いないとも言えます」
「巫女とよほど波長があったのじゃろ。今まで一度たりとも姿を見せたことはないのう」
 胸の奥に重石が詰まっているような気がする。なんだかやるせなくなってその場にへなへなと座り込んだ。
「なんとかしてあげられないの?」
 ぎしり、と柱が鳴った。カミさまが腕を組んで、柱にもたれ掛って何かを考えるように目を伏せていた。
「――烏鵲橋」
「ウジャクキョウ?」
 なんなの、それは。難しい言葉でごまかそうったってそうは……
「今日は七夕じゃ。棚機つ女の儀式は七夕の行事。かつての恋人の待つ黄泉との境の河に鵲の橋を架けてやろう」
 うじゃくきょう、ってまさか鵲の橋のこと?
「粋じゃろ?」
「それ、自分で言ったら全然粋じゃないよ」
 これで満足か? といわんばかりの表情に胸の重石がすっと取れたような気がした。


 夜。黄泉から吹く風にあてられるから、と私はそばにいることは許されなかった。正宗もしずちゃんもついていってしまったのでたった一人、さびしく縁側に座る。
 夜空の美しい天の川を見上げながら、私は地の底に流れる河に架かる鵲の橋を渡っているだろうもう一人の織り姫に思いをはせた。

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