espresso

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 ひらひらのリボンにきらきらとした包装紙。
 街中が甘ったるい匂いに包まれているようにさえ感じられる。
 お正月が済んだとたん、そんなものは存在していなかったかのように、世間は一気にピンク色に染まった。

「相模先輩、ここの部署ってバレンタインはどうしてます?」
「うーん、参加したい女性陣でお金出し合って、大箱買ったりしてるかな。中には手作りしてくるコもいるけど……」
 会社も例外ではなく、世間と同じようにピンク色に染まりだす。休憩時間のつかの間の楽しい会話を邪魔しないよう、悦子は小さくため息をついてニュースサイトをチェックしていた携帯電話をカバンに片付けた。また憂鬱な季節がやってくる。二月、三月の二ヶ月間は職場に必要以上に甘いものが溢れかえるのだ。お菓子の詰め合わせなんて買わなくてもいいのに。それとも、あげたくもないものにお金を払うことを強要されないだけましだと思ったほうがよいのだろうか。
「手作りですか?」
「そうそう山本なんかは、おいしいお菓子焼いてきてくれるんだよね」
「えー、山本先輩って背高いし、スタイルいいし、クールで仕事もできるし、その上お菓子まで作れちゃうなんてうらやましすぎです〜」
 二人は、ロッカーの裏側に悦子がいることに気が付いていないようだった。別に盗み聞きをしているわけではなく、普通に聞こえてしまうだけなのだが、後から居た事を知られるのも非常に気まずい。今度は二人にも聞こえる大きさでため息をつくとロッカーの影から顔を覗かせた。
「あんたは本当に山本が好きね。そんなに手放しで褒めるほどのものかなぁ。無愛想なだけじゃない。でも残念ながらそっちの……」
「お褒めに預かり光栄なのですが」
 うわ山本先輩いたんですか、と坂本はメイクをしなくても元から大きな目を更に大きくして驚いている。相手は電話の向こう側にいるとはいえ、客商売なのだから思ったことをそのまま表情に出すんじゃないわよ、と悦子は常々注意しているのだが、その癖はなかなか直りそうにない。
「それ、山本違いだから」
「そうなんだよね。そっちの山本じゃなくて耕介君の方よ、お菓子作りが得意なのは。結構おいしいのよ。最近忙しいのか作ってくれないんだけど、前はよく作っていたな。久しぶりに食べたい」
「何それ、すっごい食べてみたいです。悦子先輩って耕介先輩と同期なんですよね? お願いしてみてくださいよぅ」
「何で私がお願いしなきゃなんないのよ」
 濡れたような真っ黒な大きな瞳に、手を合わせた向こう側からの上目遣い。絶対に私が依頼するよりも自分でしたほうが効果があると思ったが、かわいい後輩の言うことをむげにするのもかわいそうになり、悦子は「言うだけなら言っておいてあげるわよ」と結局引き受けてしまった。


 昼食時の社員食堂は、同じ部署か同期のメンバーでいくつかグループができる。悦子や耕介はそれぞれ時間差で休憩時間を取らなくてはいけない部署に属しているため、時間が合えば自然と同期で寄り集まることになる。耕介は食堂をぐるりと見渡し、悦子を見つけると当たり前のように隣の席に滑り込んだ。
 どちらにしようか悩んでやめたB定食のトンカツがあまりにおいしそうで、悦子は勝手に耕介の皿からトンカツを一切れ拾い上げて口に放り込み、代わりにA定食のメニューだったカレイの香草パン粉焼きの、最後の一切れを置いた。全部で五人いる同期はそれぞれそんなことが許される程度に仲が良い。
「そんなことするからお前ら夫婦? とか言われるんだよ」
「しなくたって苗字が一緒な事が原因なんだから一緒でしょ。そもそもあんたなんか問題外だから安心しなさい」
「馬鹿にすんなよな。おれ、結構もてるんだぜ。去年のバレンタインなんか11個ももらったし」
 10個じゃなくて11個という端が妙に現実的で嘘ではないように感じられる。悦子は耕介の顔をちらりと見てため息をついた。どうせ、全部お姉さまやおば様方からの「耕介君かわいいしあげるね」というチョコに違いない。軽い天然パーマにくりくりとした目がチャームポイントのベビーフェイス。かわいいともっぱら評判の室内小型犬キャラの彼は、例えば相模先輩みたいな年上女性からの受けがいいのだ。
 ふいに坂本のお願い事を思い出し、ロッカーでの出来事を掻い摘んで耕介に説明する。
「というわけだからさ、何か作ってやれば? 相模先輩も喜びそうだし」
 かしゃん、と耕介が掻き込み終わった茶碗をトレイに置く。相変わらず早いと悦子は感心しながら、ポケットから小銭入れを取り出した。
「考えとくよ。でもおれにお菓子作るメリット、もうないんだよな。なあ、エスプレッソでいいんだろ?」
 食後の飲み物を買いに行くのだと察した耕介が尻ポケットから財布を出しながら、悦子に片手を差し出して問う。
「頼みごとをしたのは私だから、私が行くよ。牛乳屋さんのカフェオレでいいんでしょ」
 悦子が逆に手を出すと、百五十円を渡された。自販機で望む商品を買って戻ると、耕介は購買の甘味コーナーに目を奪われている。
「あの抹茶プリンうまそうだと思わん?」
「思わない」
 一瞬のためらいもない悦子の返事に、耕介はげんなりとした表情で振り返った。品物と三十円を渡して再び席に着く。
「本当に甘いもん、好きじゃないんだな。まったく食べられないの?」
 プルトップが開く小気味良い音とともに、コーヒーの香りが広がる。
「まったくって事はないけど。ブランデーが効いたパウンドケーキなんかは嫌いじゃないよ」
「それは甘いもんにカウントするなよ。ほら、パフェとかさ。駅地下にすっげー美味いカフェがあるんだよ。そこの季節のパフェなんて最高なのに」
「……何よ。お菓子作る代わりにそこに付き合えっていうの?」
 半分程飲み干したカフェオレの缶の角をコンコンと机に打ち付けて耕介は眉をひそめた。
「何でもかんでも交換条件にするなよ。別に嫌々付き合ってもらおうなんて思っちゃいないさ。その店、一応エスプレッソもメニューにあるけど、おれには美味さがわからん。煮詰めてあるだけって感じしかしないんだよな」
 耕介は悦子の前に置いてあるエスプレッソの小さな缶を引き寄せて小さくすする。
「苦っ。やっぱりおれ、これ無理」
 鼻に皺を寄せたその顔に悦子は思わず小さく笑った。おいしい餌だと思って食べられないものを食べた犬みたいだ。
「馬鹿ね、エスプレッソはその苦味がいいんじゃないの。日本酒みたいに、余韻を楽しむ飲み物よ。まあ、最初はカフェ・ラテなんかで慣れてからがいいんじゃない?」
「日本酒も苦手だし、楽しみ方がよくわからん。あー、そういえば今度部長に呑みに連れて行かれるんだよな。酒は苦手なんだよ」
 盛大なため息とともに、おでこを机にぶつけそうな勢いでうつ伏せた耕介の後ろを坂本が通りがかる。首尾はどうです? と首をかしげるのに対して悦子もどうだろう、と首をかしげ返す。お願いしますね、と手を合わせて坂本は食券売り場に去っていき、悦子はどうしたものかと頭を悩ませた。坂本が来たということは、自分の休憩時間が残りわずかだという事なのだ。
「まあ、がんばれ。飲み会の前にウコンと牛乳飲んでいくと酔いにくいよ」
 残りのエスプレッソを飲み干して、悦子は近くにあった缶入れに投げ入れた。どうやら、自分で思っているよりも坂本や相模先輩の事が好きらしい。どうすれば、耕介は二人のためにお菓子を作ってくれるだろう。
「いいわよ。メニューにエスプレッソがあるんだったら付き合ってあげても。どうせ一緒に行く相手がいないんでしょう。だからさ、」
「なんか引っかかる言い方だな。交換条件にするなっていっただろ。でも、まあいいよ。どうせ暇だし作ってやるよ。悦子も食べられるやつにしてやるから楽しみにしておけよ」
 よろしく、と後ろに手を振って、悦子は自分の部署に引き上げた。甘いものがあまり好きではないはずの悦子なのに、耕介の作ったお菓子を少し楽しみに思っていることを自分でも意外に思いながら。

 
 けれども一週間経っても、二週間経っても耕介はお菓子を持ってこなかった。「本当に作ってくれるって言ったんですか?」なんて坂本がつぶやく度に交渉が失敗したのではないかと悦子は居心地の悪い思いをする。何度か社員食堂で遭遇したときに恨みがましい視線を向けてみても耕介はけろりとした表情のままだ。
「よう、悦子。持ってきてやったぞ」
 そうしてやっと持ってきたのはなんとバレンタインデー当日の業務終了後。相模先輩と坂本も耕介の来訪を聞きつけて飛んできた。
「山本」
「山本先輩」
「「これ、どうぞ」」
 相模先輩と坂本が同時ににかわいらしい包装紙の小さな包みを耕介に手渡した。
「どうもありがとうございます。で、悦子からはないの?」
「あるわけないでしょ」
 だよな、とつぶやいて耕介は、女性陣へのお土産とは別に茶色の小さな箱を取り出した。
「ほい、逆チョコ。っても中身はチョコじゃないけどな。悦子でも食べられそうな味に作ったつもりだから味わえ」
「山本先輩それ、もしかして本命ですか?」
 坂本の目が好奇心できらきらと輝きだす。テンションの上がった坂本の声は人を振り向かせるのに十分で、部署内に残っていた人間の注意は一斉に二人の山本に向けられた。
 一瞬でしんと静まり返った中、耕介ははっきりと答えを告げる。
「そうだよ」
「は?」
 悦子の怪訝そうな顔に耕介は軽くため息をつく。
「お前らまだ付き合ってなかったのか」
 入れられた茶々にそうなんですよ、と耕介は返す。
「どっかの誰かさんはすごく鈍感で。皆さんとっくにおれの気持ちなんて知ってましたよね?」
 ここは悦子が属する部署で耕介は部外者であるはずなのに、なぜだか耕介が優勢の空気が流れている。この場で居心地が悪いのは悦子だけだ。
「相模さん、悦子って今日残業あります?」
「どうぞ、どうぞ、遠慮なく持って帰っちゃってちょうだい」
 満面の笑みで相模が答えると、行くぞと耕介は悦子の手を取った。
「待ってよ、私荷物持ってない」
 一刻も早くこの場所から逃げたいが、素直に耕介について行きたくはない。せめてもの抵抗と悦子が理由を探すと、坂本がすかさず悦子にバッグを手渡した。普段は何をするにも気が利かないくせにと坂本をにらみつけると、坂本はにこにこというよりはにやにやと笑って胸元で手を振った。


 カフェ・ラテとエスプレッソと季節のパフェ。と顔を覚えているらしい店員に声をかけ、耕介は店の奥へ悦子を連れて行った。
 耕介は、そこまでは強引だったのに、向かいに腰掛けてからはそっぽを向いて悦子を見ようともしない。
 ゆったりとした音楽に落ち着いた色調、暗めの照明が店のターゲットが学生ではなく大人だということを知らせている。白いブラウスに紺のスカートの制服の店員が耕介の前にカフェ・ラテと季節のパフェ、悦子の前にエスプレッソを置き「ごゆっくり」と悦子に微笑みかけて立ち去った。誰が何を注文したかわからない注文方法だったのに誤らずに渡された商品とその笑みに、この人は事情を知っているのかもしれないと邪推してしまう。パフェは悦子が「パフェ」と聞いて想像するものとずいぶん姿が違い、それほど大きくなくフルーツの盛り合わせとグラスケーキの中間のような食べ物だった。
「その、悪かったな」
 店員が十分に離れてしまってから、耕介はぼそりと言った。
「驚いた。いつから?」
「新入職員の研修の時ぐらいから」
 青地に白いラインが風のように入ったデミタスカップに砂糖を入れると、砂糖はしばらく泡の上に留まって茶色に染まっていき、ぷくりとコーヒーの中に沈んだ。静かにかき混ぜて口をつけると、香ばしいような香りが鼻と口に広がっていく。その間悦子は耕介の耳の辺りを見つめていた。
「あ、おいしい」
 新入職員の研修の時からならば、もう5年以上前の事だ。悦子の視線の先で、椅子に横向きに腰掛けた耕介はパフェの果物を一つずつ口に運んでいる。
「気に入ってもらえてよかった。これもうまいから食べてみな。果物なら食えるだろ」
 そう言って耕介は、悦子にフォークを突き出した。細身のフォークの先に少しの生クリームとチョコレートソースがついた四分のひとかけらのイチゴが刺さっている。言われるままに口に含むと、苦めのチョコレートソースと甘酸っぱいイチゴが良く合っていた。
「何というか、別に、甘いものが嫌いなわけじゃないの。味というよりは欲望を追求しすぎて本来のいいところが失われてしまっているような所や、似たようなものばかりなのに雑誌なんかで、新しい、おいしいなんてもてはやされて、もう、いっそ醜悪にすら思える所が好きじゃないんだよ」
 返事に困ったのか、耕介は何も言わない。悦子はカップに視線を落とした。
「甘いものが好きな人の前で言うことじゃなかった。ごめんなさい。……そういえば、カフェ・ラテ注文してたね。気に入ったの?」
「カフェ・ラテ、あの日はじめて飲んでみたんだ。苦いだけだと思っていたコーヒーのおいしさが少しわかるような気がした。何回か飲んでみたらもっと楽しめそうに思えた。最近では自分から飲みたくなるぐらい。おれはね、悦子のそういうところが好きなんだよ。自分が好きなものや、嫌いなものをどうしてそう思うのか、ちゃんとわかっているところとか、おれの知らない世界の入り口を教えてくれるところとか。もし良かったら、今度は日本酒の楽しみ方を教えてよ」
 エスプレッソの最後の一口を飲み終わった。溶け残った砂糖がカップの底で鈍く光を弾いている。悦子は顔を上げた。
「いいわよ。なんならこの後呑みに行く?」
「え、今から?」
「耕介って本当に私のこと好きなの? 同年代の子みたいな、ほら、篠田とか倉本みたいに彼氏や彼女欲しいってぎらぎらした感じしないし」
 パフェの最後の一口を食べてしまってから耕介はわかってないな、と呟いた。
「別におれは、彼女が欲しいのでも運命の相手を探していたわけでもないの。そうだなぁ、あ、相棒? 悦子なら背中を預けても安心できる」
「相棒? それ、気に入っちゃった。」
 ふふ、と悦子は声を出して笑った。
「ほら、カフェ・ラテを早く飲んじゃってよ。日本酒呑みに行くんでしょ。」
 私、いい店知ってるからと急かし、悦子の長めの爪が机を叩く。「彼氏」や「恋人」は何か違和感があるけれど「相棒」なら私にも耕介にもぴったりだ。悦子は伝票を片手に立ち上がる。
 耕介は、まだ飲み慣れないカフェ・ラテに砂糖を足して残りを飲み干し、慌てて悦子の後を追って席を立った。


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