ねがい
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「は〜ぁ、つまんなーい」
角をはさんで隣に座った栞はシャーペンを投げ出して机に突っ伏した。
「そんなこと言わない。まだ二ページしか終わってないよ」
だけどすっかり集中力の切れてしまったらしい栞はあー、とかうーとか言葉にならない呻き声を上げたっきり動かなくなってしまった。
「しーおーりー? ほら、続きするよ」
しばらく呼んだりゆすったり、机を叩いたりしてみたけれど返事はない。……寝たんだろうか。どうせ寝た振りだろうけど、つついてみても反応がなかったから僕も自分の腕を枕に寝転んだ。
「――ねえ、ゆーいちくん」
中三の夏にこれだけの集中力しかないのは考えものだ、どうしたものか。いくら幼なじみでも、栞のおじさんおばさんに家庭教師として給料までもらっている身である以上、いいかげんに考えるわけにもいかないしなあ。そんなことをつらつらと考えているとふいに栞が僕の足を蹴った。
「ゆーいちくんってば。あのさぁ、中学の同級生ってさ、卒業したらやっぱり会わないもの?」
……また同じクラスの山内君の話か。うんざりしながら僕は身を起こした。内心ため息をつきながら、それでも僕は『幼なじみのおにいちゃん』の仮面を外さない。
「クラス、仲がいいんでしょ。栞がクラス会でも企画すれば?」
「そうなんだけどぉ……」
栞が山内君への思いを僕に告白してそろそろ半年ほど経つ。栞にしてはものすごく長い。山内君の前は佐々木君だったし、その前は小川君だった。さらにその前に好きだった平山君のことは確かたった一週間しか好きじゃなかった。
「高校がちがうと、友人でもなければ会うことはなくなるよ」
だからさっさといつもみたいにあきらめてしまえ。なーんてことは言えずに心の中にしまっておく。
「勉強飽きた。ゆーいちくん、散歩いこ」
「栞がうちに来るのは七時半。やったのはたったのニページ。……そろそろ八時半になるのはなんでかな。このテキスト、一ページが大体十五分で終わるやつだよ。散歩なら帰り道にしたらいい」
だからあと一時間は頑張ろうと言って、栞の頭を無理矢理起こしてテキストをパンパンとたたいた。そして机の下で栞の頭を触った手をそっと握った。
「ほら、次これ。( )に当てはまるのは?」
「えぇ〜」
間の抜けたやる気の無い声。一人目の家庭教師が「ごめんなさい」と逃げた理由がわかる気がした。栞と一緒にいられるだけで幸せだと思う僕でなければ、こんなやる気の無い相手を教えるなんて耐えられないだろう。
いっそ高校入試なんて失敗して永久就職すればいいのに。馬鹿なことを考えながら、かわいらしい丸文字がちまちまとつづった文字をそっと指差した。
「そこ、まちがってる。inじゃなくてatだよ。時間や場所はinとatがややこしいけど、パターンが決まってるから覚えて」
「――ゆーいちくんってすごいよねぇ」
僕は顔を上げた。栞のきらきらとした瞳が僕を覗き込んだ。わけもなく心臓が踊って、それを落ち着かせようと何度も息を飲み込んだ。
「ゆーいちくんってさ、英語もぺらぺらじゃん? あとなんだっけ、確かフランス語はなせるんでしょ」
それは第二外国語で選択してたから。でも、一年のころに少しやったきりでしゃべれないも同然だ。手の中でくるくると器用にシャーペンを回して栞は小首をかしげた。
「ところでさ、なんでフランス語なの?」
「ひみつ」
……たいした理由じゃない。きっと誰かが聞いたら腹を抱えて笑うだろう。ちょうど何を選択しようか迷っていたときに栞が「パティシエになりたい」と言ったのだ。もっとも栞はその持ち前の変わり気の速さで三ヶ月ぐらいでその夢は変わったけど。
「えー。じゃあさ、フランス語でなんか言ってみてよ」
「やだよ」
栞の機嫌がはたちまち悪くなるのが表情でわかる。本気で悪くなっているわけではないのは百も承知だが、僕は小さくため息をついて口を開いた。
「C'est ma raison d'etre pour l'existence que je prends a soin de vous.」
僕の発音を聞いて、へぇ、と栞の目が丸くなる。文法もめちゃくちゃで、たぶん単語の使用法が間違っていて、適当な発音は現地の人には絶対に通じないと思うけど、栞がほめてくれただけで僕はフランス語がすごくうまくなったような気になれる。
「ね、今の何ていったの?」
「――ひみつ」
そんなー、と栞はまた膨れるが、こればかりはいうわけにはいかない。だって困るだろう?
――君に何かしてあげるために、僕がいるんだよ――なんていわれたら。
「わかった! わたしのことわがまま娘だとか、ちっとも勉強ができないとか、そんなこと言ったんでしょう!」
答えずにいると、むーとうなってその勢いで栞は三問問題を解いてまたシャーペンを放り投げた。三問のうち二問はまた不正解だったけど。
あ、蛍! 少し先を歩く栞がはしゃいだ声を上げる。僕の家から栞の家までのたった三十分が一日のうちで最高に幸せな時間だ。夢中になって蛍を追いかける栞の、後姿を見ると知らずに頬が緩む。
「そういえばゆーいちくんがくれたホタルブクロ、また蛍が出る前にしおれちゃった。」
栞がくるりと振り返った。僕は変な顔をしていなかっただろうか。
「ここらは蛍が孵るのが遅いからなぁ。……栞、川に落ちるなよ!」
中学生に似合わない大人びた声でくすくすと笑って「大丈夫よぉ」と再び駆け出す。
――君になにかしてあげることが僕が存在する理由だ―― そう思うのも嘘じゃない。
だけど僕は枝になれたら、と思う。なにかしてあげたいじゃなくて、僕の元に留めてしまいたい。
いつか、そう栞がまだ幼かったころ、栞と街を歩いたときに街頭で配られていた風船をもらった。何かの拍子に風船は栞の手を離れ、ふわふわと空に舞い上がり、僕と栞は手をつないで走って風船を追いかけた。やがて風船は街路樹の高い高い枝に引っかかった。
大空に舞い上がってしまいたい風船が栞で、街路樹の枝が僕。いつまでもふわふわと好きなことをしていたい栞を、僕のそばに縛り付けてしまいたい。
これは僕のわがままで、実際に縛り付けてしまえば栞は風船と同じようにしぼんでしまうのだろう。
だけど……
僕はいつか、栞を引き止められる枝になれないだろうか。
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